正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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『軍兵力並配置に関する参考資料の件(支駐)昭和11年(1936年)3月4日』
(作成者:支那駐屯軍參謀長 永見俊徳)
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C01004192300?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=C01004192300&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&
軍兵力並配置に関する参考資料の件


『軍兵力並配置に関する参考資料の件(支駐)昭和11年(1936年)3月4日』
(作成者:支那駐屯軍參謀長 永見俊徳)

判決
豊台には日本軍の法的根拠なきも、
従来の慣習に従い不取敢一部隊を臨時形式をもって派遣し、
時日の経過とともに之を永駐化するを賢明なりとす。

理由
条約上の根拠
北清事変に関する最終議定書(1901年)

1.第9条において
清国政府は1901年1月16日の書簡に添付した議定書により、
各国が首都(北京)から山海関までの自由交通を維持するため、
相互の協議をもって決定すべき各地点を占領する権利を認めたり。
すなわち、この各国の占領する地点は、
黄村、郎房、天津、軍糧城、塘沽、
盧台、唐山、樂州、昌黎、秦皇島および山海関とす。

2.第7条中に
各国がその公使館防御のためには公使館所在区域内に
常置護衛兵を置く権利を認めたり。
本条項中には黄村以北 北平 付近を含まれあらず、
ゆえに北平および平綏平漢鉄路の分岐点たる豊台は
北支那人の往復頻繁 北平支那人の増加
および同地にも邦人の発展を見つつある今日、これの保護のため、
北京歩兵隊の一部を派遣することは必要であり条約上の差し支えなし。

天津還付に関する日清交換公文(1902年)
1.外国軍隊はその必要を感じたる時において、
夏季の屯営地を占領するの権ある事は御承諾相成度候。
演習のため、ある地点を占領するの権を認めあり。

列国軍司令官会議の守備区域の変遷
1.1901年の会議において
北京、大沽、山海関間の鉄道線上、所々に永績の衛成地を設く。

各国軍の分担区分
伊国 黄村、独国 郎房および揚村、英国 盧台および唐山

2.明治44年11月において
革命撹乱発生時、交通線保護のため白河結氷前、
英国軍 北京より王荘の南方6kmにいたる71km間、
豊台 黄村 安定 に小哨を置く。

3.京楡鉄道守備に関する司令官会議(1911年1月)
英国軍 北京より白河に架せる揚村鉄橋の西端にいたる。

4.列国軍司令官会議(1912年1月)
鉄道沿線の緊張なる停車場、橋梁等に軍隊を配置すること。

5.露国兵 京楡鉄道守備に参加の件(45年3月)
北京 豊台
また欧州戦争(青島戦)の当時、若干変更し日本軍 揚村に分遣す。

6.大正7年頃より同15年にいたる間、
奉天軍の軍事輸送の抗議、軍用列車の運行等に関し、
列国軍司令官会議を再三実施せられたり。

7.大正15年 英国軍の豊台守備撤退に関しては調査中。

8.昭和3年の済南事変において英国軍 唐山付近の派遣、同年撤退。

9.昭和5年12月22日 列国軍司令官会議において
英国軍司令官の提議による協同動作計画の重要改正条項左のごとし。
 1.京奉鉄道自由交通維持のため、平時より守備区域分割主義を廃止し、
 状況に応じ、軍司令官会議において定むることとせり。
 而して鉄道守備以外に軍隊派遣を認めたるも
 直接守備に関する条項は削除せり。
 2.現在兵力においては北京 塘沽 間の交通維持を行なう。
 ただし現に配置しある塘沽 秦皇島 山海関等の部隊は
 関係軍司令官の必要と認める期間存置す。

10.豊台は明治44年以来、昭和5年にいたるまで
列国軍司令官会議の決議により、
概ね英国軍の守備区域と定められありて、
上記の表に示すごとく
大正元年より大正15年まで守備兵を配置せられありたり。

以上により観察するに鉄道守備の任務を有せずして
演習または兵営狭隘のため、
あるいは邦人保護等の目的と北支現時局の状況により
一部隊を派遣駐屯せしむるは列国協同動作計画の条文には何ら抵触せず、
また列国軍司令官に、この実施方を協議する必要もなし。
すなわち従来の慣例を観るも記録なし。
ことに昭和3年の英国軍の古冶林西、米国軍の新河分遣等は最も明瞭なり。
しいて列国に通告せんとするならば、
実施後において毎月相互の兵力通報時に北平の邦人増加
ならびに豊台に邦人居住および旅行者激増保護のため
部隊を派遣分駐せる旨を通報し置けば、
時日の経過とともに常駐のごとく一般に思はしむるにいたるものとす。

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北京議定書の附記『天津還附ニ関スル日清交換書』
「15 天津行政清国へ還付1件 313」 P592
【第16】外国軍隊は必要の時に際し
北戴河及北京西方の丘陵上に夏期舎営地を占領するの自由あるべき事。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0004/0001/0035/0760/index.djvu


そもそも日本軍の豊台駐留がどうであれ、
演習するために北京西の丘陵を占領することは自由でしたし、
演習の通告義務はなかったのに支那側に7月4日に通告していましたし、
7月6日から演習をやっていたのに
7月7日の夜になって支那軍が攻撃してきたのです。
豊台駐屯地が攻撃されたのではなく、
演習地に居た日本軍が攻撃を受けたのですから、
「支那軍による不法な攻撃」といっていいと思います。

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盧溝橋事件
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2008/07/28 07:00|年表リンク用資料
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