正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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「華北分離」というのは、

まず1931年9月18日~満州事変の戦後処理条約
『1933年5月31日・塘沽(タンクー)停戦協定』で、
Chinaと満州の間(南部)に
緩衝地帯(非武装地帯、非戦地区→略して「戦区」と呼ばれてた)ができたが、
その緩衝地帯は南部のほうだけであり、
北部・中部のほうは、まだChinaと満州は直接、接していた。

北部の察哈爾(チャハル)省の宋哲元・第29軍が、
たびたび満州に侵入して相次いで武力挑発事件を起こしていたので、
1935年6月27日、「土肥原・秦徳純協定」が結ばれ、
宋哲元・第29軍は中部の河北省に移動することになったので、

察哈爾(チャハル)省からChina軍がいなくなったことで、
察哈爾省自体がChinaと満州の間の緩衝地帯のようになり、
北部も緩衝地帯ができた。

しかし、まだ中部の河北省は満州と直接、接していた。

『1933年5月31日・塘沽(タンクー)停戦協定』で緩衝地帯となった地域は、
China軍がいなくなったことで独立の機運が高まり、
1935年11月、冀東防共自治委員会ができて自治宣言して自治区になった。

察哈爾省もChina軍がいなくなったので、
察哈爾省のモンゴル族の独立派リーダー「徳王」を中心とする勢力が
独立を強く望むようになり、

中部の河北省でも自治を望む声が高まり、

1935年12月、河北省(冀)+察哈爾省(察)で
冀察政務委員会ができて自治区となり、

Chinaと満州の間、北から南まで、すべてに緩衝地帯ができた。

いわゆる「華北分離」というのは緩衝地帯に関する出来事で、
『1933年5月31日・塘沽停戦協定』後、
China軍が満州に侵入したり、緩衝地帯に侵入したり、
協定が結ばれて緩衝地帯が増えたりする中で、

Chinaの中央軍や地方軍閥などが満州軍や徳王軍や日本軍・日本人などに
攻撃を仕掛けてきて交戦になった出来事である。

華北分離図
緩衝地帯
2008/07/27 07:00|年表リンク用資料
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