正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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『大東亜戦争は日本が武力攻撃を受けて始まった戦争です。』

大東亜戦争後、一番大きな問題は、
大東亜戦争の大きな流れが隠されている事です。

なぜ真の日本人までもが反日的な思考になってしまうのかというと、
大東亜戦争の大きな流れを知らないからではないでしょうか。

政治・軍体制がどうだったとか、
一つ一つの軍事作戦がどうだったとか、
戦争中に戦争犯罪が起きたかどうかとか、
そういう事よりも、大東亜戦争の大きな流れが一番大事です。

合法的に行動していた日本が不法な武力攻撃を受けて始まった戦争で、
相手が戦争をやめてくれなかったとしたら、

つまり本当に日本が自衛側であったとしたら、
政治・軍体制、一つ一つの軍事作戦、戦争中の戦争犯罪がどうであれ、
日本は応戦・反撃するしかなかったわけです。

そして、まさに日本が武力攻撃されて始まったのが大東亜戦争でした。

大東亜戦争は真珠湾攻撃で始まったのではありません。

さかのぼって大ざっぱに言いますと、

◆なぜ日本は真珠湾攻撃をしたのか?
→石油禁輸されたからです。

◆なぜ日本は石油禁輸されたのか?
→日本軍が条約で仏印進駐したからです。

◆なぜ日本軍は条約で仏印進駐したのか?
→アメリカが蒋介石に武器を輸送する仏印ルートを遮断するためです。

◆なぜアメリカは蒋介石に武器輸送していたのか?
→蒋介石に日本のみを武力攻撃させていたわけです。

◆蒋介石軍から日本軍を武力攻撃してきたのに、
なぜ被害側である日本が経済制裁されなければならないのか?
欧米と同じ条約による合法駐留の日本軍に対して
蒋介石軍は日本軍のみを武力攻撃してきたのです。
蒋介石は自衛でもなく何の通告も要求なく
日本軍のみを武力攻撃してきました。
アメリカによる蒋介石への資金・武器支援も
アメリカにとって何の自衛でもありませんでした。

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大東亜戦争

大東亜戦争の発端の日付については閣議決定と法律により、
当時の日本の認識は、はっきりしています。

1937年9月2日の近衛内閣の閣議で「支那事変」の呼称と
「支那事変は蘆溝橋事件が発端である」ことが閣議決定され、

1941年12月12日の東條内閣の閣議で
「今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ
支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス」
と閣議決定されているので「大東亜戦争」が正式な名称で、

1942年2月17日には「支那事変」の呼称を
「大東亜戦争」に改める法律第9号の閣議決定が行われていますので、

法的には大東亜戦争の発端は蘆溝橋事件となるわけです。

しかし戦争の原因を考察すれば
蘆溝橋事件は単なる地方軍閥との軍事衝突事件であり、
しかも蘆溝橋事件は1937年7月11日20:00の
『松井-秦徳純・停戦協定』で終了していますので、
停戦済の軍事衝突事件は蒋介石・中央政府軍が上海を侵略し、
無差別空爆する理由にはなりませんし法的根拠はありません。

支那事変・大東亜戦争の実質の発端は第二次上海事変です。

たとえ盧溝橋事変が発端だと解釈するにしても
蘆溝橋事件も第二次上海事変も、どちらにしても支那軍からの攻撃であり、
それに対して日本軍は応戦・反撃していたことに変わりありません。

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「大東亜戦争の大まかな流れ」

欧米人・欧米軍と同様に、
日本人・日本軍も条約で合法的にチャイナに居たのですが、
蒋介石軍が日本軍・日本人に不法武力テロ攻撃してきたから
日本軍は応戦・反撃していました。
(1937.7.7盧溝橋事件や1937.8.13~第二次上海事変)
日本からの和平提案を蒋介石が拒否し続けていたから戦闘が長引きました。
長引いた理由は英米が蒋介石に資金・武器支援していたからです。
日本は、英米が蒋介石に武器を輸送する援蒋ルートを遮断するため、
仏印と条約を結んで仏印に日本軍が合法的に進駐して
援蒋ルートを遮断すると、
英米が、被害側である日本に対して石油禁輸してきたので、
日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるため、
先手を打って真珠湾攻撃しました→日米戦争。
1937.7.7盧溝橋事件もしくは1937.8.13~第二次上海事変から始まる支那事変
と1941.12.8~日米戦争までを総称して大東亜戦争といいます。

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★盧溝橋事件(1937.7.7)の『松井-秦徳純・停戦協定(7.11)』後、

★1937年8月9日は船津和平会談の日だったが支那保安隊が
大山中尉と斉藤一等水兵を惨殺して和平会談をぶち壊した(大山事件)
この日の日本側の和平案は大幅に譲歩したものであった。
・塘沽協定の解消・梅津-何應欽協定の解消
・土肥原-秦徳純協定の解消
・冀察政権の解消・冀東特殊貿易の廃止
・非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
・華北における自由飛行の廃止
・支那側が要求すれば上海停戦協定をも解消

★1937年8月13日~第二次上海事変。

―――――

中国における日本租界は、
1895年(明治28年)4月17日の日清講和条約(下関条約)や、
1896年7月21日の日清通商航海条約により
設置されていました。

欧米も中国と条約を結んで
中国に租界や租借地を設置していましたし、
中国に日本人が居たこと自体は
悪い事ではありませんでした。

1936年12月12日の西安事件で
蒋介石軍(国民党)と毛沢東軍(共産党)は
第二次国共合作し、以後、国共は日本と戦う事にしました。

【1937年7月7日 盧溝橋事件】
日本軍を銃撃してきた集団がいたので、
日本軍は、その銃撃してきている場所を
制圧・撃滅しました。
敵兵の遺体を調査した結果、
支那の国民革命軍第29軍の正規兵である事が判明。
7月11日20:00『松井-秦徳純・停戦協定』が成立し、
盧溝橋事件は終結しました。

盧溝橋事件で支那の国民革命軍第29軍が
日本軍を武力攻撃してきた動機が偶発的なものであれ、
国民革命軍第29軍の独自の判断であれ、
ソ連・コミンテルンからの指示であれ、
毛沢東の指示であれ、蒋介石の指示であれ、
たとえ盗賊の犯行であったとしても、いずれにしても
「支那側から日本軍に対して武力攻撃してきた」
ことに変わりはありません。

ちなみに日本が支持した汪兆銘・南京政府の樹立は
1940年3月30日なので、
まだ1937年7月7日の盧溝橋事件の時点では
汪兆銘の南京政府はありませんでしたし、
親日の冀東防共自治政府の軍隊も結局は盧溝橋事件後、
1937年7月29日の通州事件で日本人居留民260人を
虐殺しましたので、
「盧溝橋事件は支那軍側、支那側から武力攻撃してきた」
という表現でいいと思います。

何はともあれ日本軍を武力攻撃してきている者たちが
どこの誰で、どういう指示を誰から受けていようが、
とにかく日本軍は武力攻撃されているのですから
反撃して当然です。

たとえば、道を歩いていて誰かに襲われたら、
その相手の身元確認などせずに
逃げるなり反撃するなりするのが普通です。

軍隊が攻撃されたら、どこの軍隊でも反撃します。

盧溝橋事件以前も
中国側は散発的にテロ事件を起こしており、
盧溝橋事件も単なる地方軍閥(支那国民革命軍第29軍)との
軍事衝突事件で、
一連のテロ事件の一種と考えても差し支えありません。
また、盧溝橋事件があったからといって、
上海共同租界を攻撃していいということにはなりません。

本格的な大東亜戦争の始まりは
1937年8月13日~の第二次上海事変です。

1840年・英清アヘン戦争後、
欧米が中国と条約を結んで上海国際共同租界を設置。

1900年、義和団と清国軍が外国人を虐殺しまくったので
(義和団の乱)、
列国8ヵ国の軍隊
(英・米・仏・独・伊・露・オーストリア・日本)
が出動して鎮圧し、
戦闘事後処理の北京議定書1901.9.7(条約)により、
以後、欧米10ヵ国軍とともに
自国民保護のため日本軍も中国に駐留していました。

上海国際共同租界は特定の国の専管租界ではなく、
チャイナと最恵国条項を含む条約を締結した国であれば、
どの国でも進出していいことになっていました。

ですから日本人・日本軍は
上海国際共同租界に行っていました。

欧米が中国と条約を結んで上海国際共同租界を造り、
そこに軍隊を配置し、「中国と最恵国条約を締結した国なら
上海国際共同租界に来ていいよ」と言うから、
日本人は上海共同租界に行ったのであり、上海共同租界は
英米伊仏軍が警備して治安を維持していましたが、
日本も軍を出して警備地区の役割分担をして
治安維持に協力していたのであり、
http://blog-imgs-63.fc2.com/s/e/i/seitousikan/skksbeingkbfsfg.jpg


欧米に日本は従っていたのに、協力していたのに、
1937年8月12日、蒋介石軍が「1932年の上海休戦協定」
に違反して協定線内に侵入し、
上海共同租界の日本人居留区域を包囲しても、
日本領事が「1932年の上海休戦協定」の
締約国である米英仏などで組織する
協定共同委員会を招集し、
蒋介石軍の撤退を要求する共同抗議、
および何らかの制裁措置を
講ずるよう提案を行ないましたが英米仏は無視しました。

翌13日午前9時30分ごろ、
蒋介石軍が日本人町を武力攻撃してきたので、
その地区の警備に当たっていた日本海軍陸戦隊が
応戦したものです。
これが支那事変の始まりであり、
大東亜戦争の始まりでした。

日本本土から援軍(上海派遣軍)が上海へ向かい、
蒋介石軍を追い払いました。
蒋介石は南京に逃げたので
増援の第10軍とともに南京を攻略。
蒋介石は武漢に逃げたので日本軍は追撃して武漢も攻略。
次に蒋介石は重慶に逃げました。
日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、
重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、
重慶爆撃を行ないました。

米英は不法な蒋介石側に
強力な資金・武器テロ支援をしていたので、
日本から蒋介石への、
たび重なる和平提案を蒋介石は拒否し続けました。
米英は、日本と中国(蒋介石)の戦争を終わらせてくれなかったのです。

アメリカが蒋介石に武器輸送していた援蒋ルート
(蒋介石支援ルート)を、
日本が仏印と条約を結んで
日本軍が合法的に仏印に進駐して
仏印の援蒋ルートを遮断すると、
アメリカは、合法側・被害者側の日本に対して
石油禁輸などの経済制裁を仕掛け、
中国から日本だけ出て行けと(ハルノート)、
理不尽で不法な事を要求していました。

日本は石油などの資源がないと
国として立ち行かなくなるので、
蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるため、
真珠湾攻撃をして日米戦争となりました。

このように大東亜戦争は日本へのテロ攻撃で始まり、
日本への原爆テロ攻撃で終わったのです。
支那事変から日米戦争までを
総称して大東亜戦争といいます。

欧米が作った条約に日本は従うしかないし、
日本は従っていたのに、
上海共同租界の日本人・日本軍が攻撃を受けているのに、
治安を維持すべき英米軍は知らん顔したのです。
上海共同租界内の集団的自衛権は発動されませんでした。

日本人町には日本人以外の
欧米人・中国人も住んでいました。
日本人が多く住んでいたというだけの地区です。

上海共同租界は中国ではありませんでした。
上海共同租界の外が中国でした。

日本の政治・軍体制が悪いから
蒋介石軍は武力攻撃してきたのではありません。

中国の正規の軍隊(蒋介石軍)が武力攻撃してきたので、
単に「治安が悪い」という話でもありません。

第二次上海事変で蒋介石は自分から自衛でも何でもなく
何の通告も要求も宣戦布告もなく、
突然1932年・上海停戦協定線を越えて上海共同租界に協定違反で
侵入してきたうえ、日本人町を包囲して武力攻撃してきて
日本人町以外にも無差別爆撃で欧米日などの民間人3000人を虐殺し、
日本からの和平提案を拒否し続けました。
その蒋介石側に資金・武器支援した欧米、
さらには蒋介石軍に応戦・反撃していた日本への経済制裁を強化した米国。
上海共同租界内を各国の役割分担で警備の任にあたっていた
日本軍こそが、いや、日本軍のみが、
「租界侵略して来た蒋介石軍」と戦って抵抗して租界を守ったのです。
爆撃に来た蒋介石軍機に対して日本軍は高射砲や戦闘機で応戦しました。
上海租界に大きなテロ被害を与えた蒋介石軍が去って行くのを、
だまって見ているだけでいいわけがありません。
相手を制圧して蒋介石を逮捕し、謝罪と賠償は当然の事、
再発防止に向けた協定線の位置の見直しや蒋介石軍の規模縮小や配置、
責任者らの処罰とともに、上海租界の警備についても
締約国内で話し合いを持つべきでした。

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【満州事変】
日本の満州権益は1904年2月8日~1905年9月5日の
日露戦争の戦後処理条約
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』

『満州善後条約(1905年12月22日)』
によって得られた正当なものでした。

1931年(昭和6年)9月18日、
奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、
敵兵が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)。

現場に駆けつけた日本の鉄道守備隊(関東軍)に
対しても敵兵は攻撃を仕掛けて逃げました。
日本の鉄道守備隊は軌条に沿って追いかけ、
敵兵は張学良の本拠地である北大営に逃げ込みました。
その北大営からも日本の鉄道守備隊に銃撃してきたので、
関東軍が本格的に報復軍事行動を起こして
満州事変が勃発しました。
攻撃されて反撃するのは国際慣習法上の自衛行為です。

このように柳条湖事件は
「犯人は支那軍」というのが本来の通説であり、
日本(関東軍)犯行説が出たのは大東亜戦争後です。
関東軍指導者が殆ど逝去された後に、
本当かどうか検証のしようがない「証言」のみが出て、
なぜか通説になってしまっている状態です。
物的証拠も状況的証拠も確たるものはなく、
主犯とされる石原莞爾も一貫して否定しています。
1931年9月15日、奉天総領事の林久治郎が「推察」として
「関東軍が近く軍事行動を起こす」旨の
機密電報を幣原外相に送ったことにより、
それを抑えるためとして建川美次少将が満州・奉天に
派遣されますが、「推察」の根拠が検証されなければ
証拠にも論拠にもならず、
派遣されたこと自体は何の根拠にもなりません。

鉄道爆破・守備兵襲撃などされたら
応戦膺懲するのは当然の事であり、
鉄道破壊犯討伐という鉄道守備の行動でした。

満洲事変は1933年5月31日の
『塘沽(タンクー)停戦協定』で終結しました。

4年後の1937年になって
満洲事変を理由に盧溝橋事件や第二次上海事変など、
まったく別の場所で
武力攻撃を仕掛けてくることは不法です。

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★1937年11月2日~第1次トラウトマン和平工作で日本側が提示した内容は、
第二次上海事変が始まる前に日本側が提示した船津和平工作(1937.8.9)と
同じ内容で非常に寛大なものだった。
白崇禧将軍も「たったこれだけの条件なら何のための戦争か」
と言ったくらいの日本側の譲歩だった。

広田外相が正式に駐日ドイツ大使に仲介を依頼し、
日本側の和平条件を提示したが蒋介石は応じなかった。
日本は英米にも「寛大な内容だから蒋介石に応じるよう説得してほしい」
と頼んでいたのだが、米英も努力してくれなかった。
広田外相は「受け入れずに戦争を継続するなら条件を加重する」と警告。
このとき日本は大本営設置も南京攻略も考えていなかった。
【1】第1次条件の時(継戦前)、すでに大譲歩の条件だった。
【2】そもそも、この事変は蒋介石の上海侵略で始まった。
【3】広田外相は「戦争を継続するなら条件を加重する」と警告していた。
【4】蒋介石は第1次条件を無視して継戦した。
蒋介石が損をする条件でなければならないはずであって、
継戦後に継戦前条件で終わりにしたら日本の泣き寝入りで終わるようなものだ。
―――――――――――――――――
蒋介石は侵略して起こした戦闘のあげく、大譲歩の和平案を無視して継戦し、
被害を甚大にした後、勝てそうにないからといって
12月2日に継戦前の条件を呑む事を「和平を受け入れようとしていた」
というなら全くおかしな話である。
―――――――――――――――――
★1937年12月21日~第2次トラウトマン和平交渉は、
すでに南京攻略後で日本側に何万という死傷者が出ていたから、
以前のような寛大な案では済まなくなっていたし、
あいまいな回答で引き延ばし続けられた。
★1938年1月2日、ドイツ大使トラウトマンが日本の第2次和平案の返事を
聞くため蒋介石を訪問しようとしたが蒋介石は会わず。
★1938年1月15日、日本の第2次和平案も蒋介石が拒否。
★1938年1月16日、第一次近衛声明「国民政府(蒋介石)を相手とせず」

しかしながら1940年3月30日に汪兆銘の南京政府が樹立するまでは、
汪兆銘も蒋介石を主席として迎える余地を残すため、
汪兆銘は主席ではなく主席代理としていましたし、
日本は対重慶和平工作の努力を続けていました。

汪兆銘・南京政府樹立後も、
もし蒋介石側から日本に和平の打診があったなら、
必ずや日本は応じていたはずです。

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この大東亜戦争の流れは、
昭和天皇が「大東亜戦争 開戦の詔勅」で
おっしゃられておられるのと同じです。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-636.html

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以下、せきやニコ動ブログ
『大東亜戦争は日本が武力攻撃を受けて始まった戦争です。』
のコメント欄での議論より
http://bit.ly/1LGFehS
http://ch.nicovideo.jp/sekiya_yuuki/blomaga/ar881005

とまと船

はじめましてですのぜ。
第二次大戦の経緯について、かなりお詳しいと見えましたのぜ。
ワイ自身の歴史の認識は、この記事とは異なりますけれども。
でもとても興味深いですのぜ。
記事を読んで感じたのは、第二次大戦では、日本は終始「被害者」で、
卑怯者のように見える中華民国と強者の連帯である米英にリンチを喰らった
ような形なのかな?いや、それは本当なのかな?
日本以外の国だけに「非」があると、果たして言えるのかな?
・・・ということですのぜ。
あと、素朴な質問なのですが、この歴史を踏まえて、
日本は今後どうすれば、より良くなるとお考えでしょうか。

―――――

せきや

一つ一つの出来事を調べてみてください。
それぞれは本当の事ですし、通史として見たら
間違っていないと分かるはずです。

いったい日本の何が悪かったというのでしょう?

全体的な流れとして考えたとき、その時々で、
ほかにも、いろいろな選択肢はあったでしょうが、
決して、絶対的に間違っていたという
強烈な批判はできないと思います。

その時々で責任者が判断してきたことは、
それぞれに、それなりの理由があったし、
それらの判断が最良の判断であったかどうかは別にして、
それぞれ納得がいくものであったと思います。

完璧な政治・軍体制などありません。
完璧な軍事作戦もありません。
戦争中、絶対に一人の兵士も
戦争犯罪を犯さないこともありえません。

完璧などありえないにも関わらず、
「完璧ではなかった」と批判することは
間違っているのではないでしょうか。

物事には「原因→目的→手段→結果」
という流れがあるのに、
「手段と結果」のみを取り上げて批判するのではなく、
「原因と目的」にこそ焦点を当て、
先人の努力に感謝すべきです。

「原因と目的」がわかれば、
たとえ「手段と結果」に不備があったとしても、
「自分たちを助けるために頑張ってくれた」
という感謝の心が芽生えます。

国民の生命・財産を守るのは国家の義務です。

攻撃を受け、我が国の存立を考えての
行為であったと判れば、
たとえ政治・軍体制に不備があったり、
一つ一つの軍事作戦に不備があったり、
戦争中に犯罪を犯してしまった兵士がいたとしても、
御先祖様の行為に対する印象が変わってきます。
それが大事です。

「歴史のif」を実際にやってみることはできません。
ですから「歴史のif」を根拠にして
先人を痛烈に批判するわけにはいきません。

批判する人たちの代案どおりに日本が対処していたら、
どうなっていたのかは、実際には検証できませんから、
絶対に、こうすれば相手が優しくしてくれて、
日本は世界一の大国となって、
バラ色の国になっていたとは断言できません。

どうなっていたのか確かめようのない
勝手な想像を根拠にして当時の人たちを
痛烈に批判するのは良くないと私は思うのです。

とにかく事実を知ることに
全力を尽くすことが大事だと思います。
事実でないことで教訓は得られませんからね。

この日記で書きましたように、
第二次上海事変では集団的自衛権は履行されませんでした。
ここで導き出される教訓は何でしょう?
たとえ条約を守り、ルールを守って行動し、
正当な商取り引きを行なっていて、
何も悪いことをしていなくても、
武力攻撃を受けたり、集団的自衛権が履行されなかったり、
石油禁輸されたり、不法な要求をされたり、
原爆を落とされたりすることがあるということですから、
我々は集団的自衛権を過信せず、
なるべく自国の経済水域内でエネルギー・資源を調達し、
食糧自給率を100%にし、潜水艦発射の核武装をすることが、
大東亜戦争の教訓といえるのではないでしょうか。

―――――

とまと船

丁寧にお返事いただき、ありがとうございますのぜ!
仰ることから、危機感を抱いておられることを感じましたのぜ。

ご先祖さまはそれぞれ最大限の努力をされ、
結果も「こうなるしか無かった」と考えていますのぜ。
その点で、同じ思いやと思っています。
事実を基に教訓を活かしたい気持ちも、同じやと思います。

異なるのは、「事実」をどこの情報から得たか、
そして、教訓を活かす方向性かと思っています。
ワイは、高校までの歴史教科書、および、中公文庫の「日本の歴史」
シリーズの記述を基に近代史を読んできました。
これらに照らすと、この記事にある内容と異なる点が幾つかございます。

特に大きな一つに「満州事変、柳条湖事件」の発端があります。
これは「関東軍が仕掛けたもの」と、上に挙げた書籍から把握しております。
そうでないとすれば、この記事にある情報は
どの資料に基づいているのか、非常に気になりました。
その前の張作霖爆殺事件も、関東軍の行為ではないとの認識でしょうか。

―――――

せきや

張作霖爆殺事件が張作霖の排日行動によって
起こったという証拠はありません。

張の排日行動は北京侵略以前からありました。
張作霖爆死事件が日本によるものという
確たる証拠はありません。
もしヤルなら勢いがあった北京侵略前でしょうが。
負けて逃げ帰ってくる奴を殺しても別に利はありません。
動機、証拠ともに不十分です。

張作霖爆死事件は奉天の内田五郎領事率いる
日支合同調査隊の報告書がありますが、
それら定説の爆弾設置箇所と結果では
明らかな矛盾があります。
あくまで「真相(犯人)は分からない」が結論ですが、
伝聞の件と、少なくとも河本供述の信憑性を含め、
確たる証拠には不十分なのです。
斉藤関東軍参謀長の所見でも同様です。

証言や供述があるからといって、
それが真実になるというわけではありません。

張作霖爆死事件で張作霖が殺されたから
満州事変が起こったのではありません。
父・張作霖を殺害された張学良が復讐するとかで
満州事変が起こったのではありません。

張学良の父・張作霖は蒋介石に抵抗していましたが、
息子の張学良は
「抵抗していた父に代わって奉天独立を守る!」
とは逆に易幟して蒋介石に服従しました。

張作霖爆死事件は満州事変(柳条湖事件)とは
関係が薄いですし、
ましてや大東亜戦争とは関係ありません。

それがあろうとなかろうと
アメリカの支那奪取野望や
西安事件による蒋の容共、
上海侵略、英米の援蒋は変わりません。

証拠のない言いがかりが
定説とされてしまっているのは
南京大虐殺や従軍慰安婦も同じです。
「これが定説だ!」と喚かれただけで
それを真実とするのは歴史の考察とはいえません。

張作霖が死ななかったぐらいで
米野望もソ連工作も通りこして
戦争が起きないとかこじつけられるなら、

張作霖の抗日が無ければ
→北洋軍閥分裂が無ければ
→辛亥革命がなければ
→ロシア南下がなければ
と、どんどん飛躍できてしまいます。

張作霖爆死事件を理由に
上海に攻めてよい理由はないんです。
支那が国際法を無視して上海テロ行為を
行わなければ戦争は起きていないのです。

満州事変の発端となった
1931年9月18日の柳条湖事件については、
大東亜戦争の戦中戦前は
「犯人は支那軍」というのが通説です。
爆音を聞いた守備兵が
北大営近くで発砲されて交戦になりました。
その後、リットンなどが調査しましたが、
結論は出ないまま、
戦後の「検証しようのない証言」で、
なぜか通説がひっくり返され、
常態化している状況です。

物的証拠も状況的証拠も確たるものはなく、
主犯とされる石原莞爾も一貫して否定しています。

仮に前通説に確たる証拠がなくとも、
それをひっくり返せるだけの
「確たる証拠がある論説」でない限り、
ひっくり返されていない状態だということです。

満州事変は1933.5.31.塘沽協定で終了していますので、
満州事変は大東亜戦争の遠因ではありません。
停戦協定というのは、
「今後この件で武力交戦してはいけませんよ」
という国際法、条約です。

蒋介石の上海侵略から始まる支那事変→大東亜戦争を
満州の復讐とかいう理由で攻めてきたなら、
それこそ停戦協定違反、国際法違反ですし、
そのような理由でなくとも上海侵略は国際法違反ですが、
塘沽協定後、蒋介石は満州国を黙認して
掃共戦闘に励んでいたことからも、
満州事変が大東亜戦争の遠因であるとは言い難いのです。

大東亜戦争後、満州事変の関係者、
本庄繁氏(1945年自決)、
板垣征四郎氏(1948年A級戦犯で絞首刑)、
土肥原賢二氏(1948年A級戦犯で絞首刑)、
石原莞爾氏(1949年病死)
などの関東軍指導者がほとんど逝去されたあと、
下記の秦郁彦氏の本2冊が出版されたことや、
高木清寿氏の本の内容が誤解されて
広まったことが大きく影響し、
検証しようのない証言によって
日本(関東軍)犯行説が通説になってしまった。

━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━

『月刊誌 知性 別冊 秘められた昭和史
「満州事変はこうして計画された」』
(昭和31年1956年12月号 河出書房)

秦郁彦氏が23歳の東大生だったときに
花谷 正氏に取材をし、その花谷 正氏の証言を
秦郁彦氏が書いた記事が下記の雑誌に掲載されたが、
当時、実際の執筆者であった秦郁彦氏の
名前は伏せられて掲載された。

※花谷 正氏は当時、少佐・関東軍司令部付
(奉天特務機関補佐官)

『月刊誌 知性 別冊 秘められた昭和史
「満州事変はこうして計画された」』
(昭和31年1956年12月号 河出書房)の冒頭部分を抜粋。

当時関東軍参謀であった花谷正が、
満洲事変は、関東軍の謀略に
基づくものであったことを、証言している史料。
当時の関東軍関係者が、満洲事変は関東軍の謀略に
基づくもであったことを認めた唯一の証言。
本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾は、
満洲事変は「自衛」であったとして
関東軍による謀略を否定しており、
花谷以外の関東軍関係者で、
満洲事変は関東軍の謀略に基づくもので
あったことを認めた者はいない。
(以下略)

━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━

『昭和史の謎を追う(上)P70~74
秦郁彦著 1999年 文春文庫』より抜粋。
・・・
私が昭和の戦争史に重要な役割を果した旧軍人からの
ヒアリング作業を始めたのは、
東大教養学部2年在学中の1953年から翌年にかけてであった。
・・・
すでに関係者の多くが他界していて、
会って話が聞けたのは花谷正、島本正一の両氏であったが、
島本は多くを語らず、東京・代々木に住んでいた花谷
(事件当時の奉天特務機関補佐官)に的をしぼった。
・・・
★私はこの事件が関東軍の陰謀であることを
確信していたので、要は計画と実行の細部を
いかに聞き出すかであった。
・・・
1956年秋、河出書房の月刊誌『知性』が
別冊の「秘められた昭和史」
を企画したとき、私は花谷談を整理してまとめ、
補充ヒアリングと校閲を受けたのち、
★花谷正の名前で
「満州事変はこうして計画された」を発表した。
柳条湖事件の核心部分が活字で公表されたのは、
この花谷手記が最初で、
当時かなりの反響が出たと記憶する。
・・・
花谷証言がほぼ正確であったことは
1958年に三谷清、1962年に川島正からのヒアリング
によって確認され、その成果は、
1963年に刊行された日本国際政治学会編
『太平洋戦争への道』
(全8巻、朝日新聞社)第1巻に紹介された。
・・・
【証言その1 見津(みつ)実上等兵(東京都在住)】
9月18日の夕方、川島中隊長の官舎へ呼ばれ、
行ってみると、中隊長夫妻、河本中尉、
それに見知らぬ大尉が応接間にいて
「今田大尉だ」と紹介された。
今田が「そのトランクを開けてみよ」と言った。
小型の布製トランクの中に
中国製らしい爆薬が約20個入っていた。
川島から「これから中隊は演習へ行くが、
お前は今田大尉と同行せよ。誰とも話すな」と厳命され、
ワインで乾杯したのでタダゴトではないと予感した。
河本中尉が何人かをつれて先発、薄暗くなって
今田と私は北大営とレールの中間点に
伏せの形で潜伏していた。
30分後にバーンと爆発音が3回聞こえ、
火柱が西南方に見えた。
すぐ中隊主力が到着し、北大営に攻撃を開始した。
戦闘が始まって少しのち兵営内へ入ると、
今田と川島が「もう大丈夫だよ」と話しあっていた。
そのようすから日本側の謀略だな、と見当をつけた。
その後、特務機関の2階に約1カ月軟禁されたのち、
中隊へ帰った。

【証言その2 今野(こんの)褜五郎(いなごろう)
上等兵(宮城県在住)】
私はラッパ卒兼伝令として
斎藤金市1等兵(故人)とともに、
9月18日夜河本中尉と行動をともにした。
線路の西側を今野、東側を斎藤、
河本の順で南下して行った。
問題の地点まで来ると、
河本が我々に第14列車(急行)を
今からひっくりかえすと告げ、
列車が近づくのを確かめたのち、
1人で図嚢(ずのう)から
取り出した爆薬をレールに装置した。
その間我々2人は5メートルぐらい離れ、
反対側に向い警戒するよう命じられたが、
「伏せろ」と河本が叫んだので伏せた。
ところが爆発の直後に列車は無事に通過してしまった。
あの地点はカーブの外側なので、
車輪が浮いたのではあるまいか。
河本から
「中国軍が鉄道を爆破したと報告せよ」と命じられ、
私は柳条湖分遣隊へ、斎藤は川島中隊長へ伝令に走った。

【証言その3 松尾正二奉天保線区長(東京都在住)】
9月18日朝に、関東軍から有事に備え、
いつでもモーターカーが出せるように準備しておけ、
と指示が来ていた。
夜は自宅に帰っていたが、線路方(がた)から
事件が起きたと電話があり出勤、
まず爆破現場を検分して
被害の状況を調べる必要があるので、
三宅保線助役(故人)らがモーターカーで出発したが、
軍が近づけさせない。
翌朝、切断されたレールを見た。
断面に重いもので叩かれた痕(あと)があり、
列車がこの部分を通過した時に生じた傷、と判断した。
切れた長さは18~20センチで、
最弱点である外側カーブの継ぎ目だが、
よく脱線しなかったと話しあった。
修理作業は一時間もかからなかった。

【証言その4 前田喬奉天駅助役】
問題の上り第14列車は予定どおり奉天駅についた。
この列車に満鉄の木村理事が乗って大連へ向うので、
当直の私がプラットホームへ見送りに出ているところへ、
軍から電話が入り鉄道爆破を伝えられた。
・・・
━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━

『東亜の父 石原莞爾 高木清寿著 
昭和29年(1954年)出版 錦文書院』
のなかの内容が誤解され、
石原莞爾氏が「自分が戦犯である」
と語ったとする伝説が始まった。

『東亜の父 石原莞爾 高木清寿著 
昭和29年(1954年)出版 錦文書院』
より抜粋。

「裁判の冒頭、尋問の前に何かいうことはないか」
『ある。満州事変の中心はすべて石原である。
事変終末は錦州爆撃である。
この爆撃は石原の命令で行ったもので、
責任は石原にある。
しかるに石原が戦犯とされぬことは腑に落ちない。
だから話は少々長くなるかも知れない。』と切り出した。
ところが裁判長も検事も非常に狼狽して、裁判長は、
『ジェネラルは戦犯として取り調べるのではない。
証人として調べるのだ。』
といい、検事は『証人はそんなことをいってはいけない。
証人はこちらで尋ねることを、
然り、然らずだけで答えるだけでよい』
と言ってあわてて石原の発言を封じた。
さては逃げたなと直感した。」

↓↓↓

これが『秘録 石原莞爾 横山臣平著 
昭和46年(1971年)発行』のなかでは、
「満州事変の中心はすべて自分である。
事変終末の錦繍爆撃にしても、
軍の満州建国立案者にしても皆自分である。
それなのに自分を、
戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」
となっている。

↓↓↓

さらに、2013年6月22日の読売新聞の特集記事
「昭和時代第3部戦前・戦中期1926~44)」のなかで、
この『秘録 石原莞爾 横山臣平著 
昭和46年(1971年)発行』をもとに
石原莞爾氏の「人物抄」で、
『戦後、東京裁判の酒田臨時法廷に証人出廷し、
「満州事変の中心はすべて自分である。
戦犯として連行しないのは腑に落ちない」
と裁判を皮肉った』
と紹介された。

しかし、東京裁判の酒田臨時法廷の詳細な記録
『石原莞爾選集 第7巻 酒田法廷記録』のなかに、
そのような証言はない。

石原莞爾氏が軍事法廷に提出した際の
「宣誓供述書」では事件の発生を
「暴戻なる支那軍隊は満鉄線を破壊し、守備兵を襲い、
我が守備隊と衝突せり」と証言している。

―――――

とまと船

>証言や供述があるからといって、
>それが真実になるというわけではありません。

証言や供述も含めた資料で歴史を学んでいました。
真実かどうかは、当時のすべてを見渡せる神か何かでない限り
わからんのやないかなーと思いました。

ワイも、自分が把握していたことが全てやないな・・・と実感できました。
ワイ自身、「日本が一方的に悪!」という考えではありません。
しかし、「日本は終始一貫『正しいこと』しかしなかった」
という考えでもありません。
各国の情勢や思惑が絡まって、日本の国内外の雰囲気もあって、
第二次大戦が起きたのやな・・・と思っています。

第二次大戦について、日本が被害者であり、
自衛のための戦争であったと言い切るには、
少々無理があるようにも感じています。
例えば石油禁輸は、禁輸する側の主権に関わる問題で自由のはずです。
石油禁輸されたからとて、禁輸した側に奇襲攻撃するのは、
こちらこそ主権侵害にあたるのではないでしょうか。

もちろん、連合国が全面的に正義とも思っていません。

あとから出てきた証言がウソか真か、これはワイには正直、分からんです。
でも、「真でない」とも切り捨てられないものと思っています。

コメントで色々お手数を掛けて申し訳ありませんでしたのぜ。
自分の、歴史についての向き合い方を考える良い切っ掛けになりましたのぜ。
ありがとうございましたのぜ!

―――――

せきや

とまと船さん

>しかし、「日本は終始一貫『正しいこと』しかしなかった」
>という考えでもありません。

「悪い事はしていなかった」と「正しい事しかしていなかった」
は、まったく同じ意味とはいえません。

日本が特に素晴らしく正しい行ないばかりをしていた
と言っているのではありません。

「正しい事をしていたら攻撃された。」
じゃなくて
「何も悪い事してないのに攻撃された。」
です。

反撃として武力攻撃されるような
悪い事をしていたわけではないと言っているのです。

◆悪い事はしていなかった。
◆攻撃されたから応戦・反撃した。
この2点です。

>第二次大戦について、日本が被害者であり、
>自衛のための戦争であったと言い切るには、
>少々無理があるようにも感じています。
>例えば石油禁輸は、禁輸する側の主権に関わる問題で自由のはずです。
>石油禁輸されたからとて、禁輸した側に奇襲攻撃するのは、
>こちらこそ主権侵害にあたるのではないでしょうか。

この記事を読まれて、自衛以外に何があるでしょう?
「日本も悪かったのではないか?」と思う点は何なのですか?
何となく自国が悪いという抽象的な批判は良くないと思います。

よく一般的に大東亜戦争で日本が反省すべきだという主張をみかけますが、
それは自衛戦争ではなく侵略戦争であるという前提ですよね?

「自衛戦争を起こした反省をしろ!」
「日本を守った反省をしろ!」
って、おかしいでしょ?

武力攻撃されてるのに「勝率が低いから自衛しない」はありえません。
自衛しなくても何もなく平和ならアジアは白人の植民地になっていません。

アジア諸国が遠い欧州からやってきた白人の植民地になってるのに
「勝率が低いから戦わない」で国が守れるなんてお花畑もいい所です。

「うまくやれば戦争もせずに独立できていた」
「どじ踏んだから失敗した」という妄想、
どんなに頑張っても負ける時はありますが批判される筋合いはありません。
批判されるのは戦いもせず服従することです。戦争には理由があるのです。

戦争は目的ではなく手段です。

戦争をするしない、してしまったという「戦争という手段」のみを叩き、
その前にある課題・問題・理由を考えない、
解決する代案を提示しない人は平和を語る資格がありません。

問題があるから、その解決手段の一つに戦争があるのです。
問題なくして解決手段は起こりません。

「戦争」自体は国内法でも国際法上でも犯罪ではありません。
法律に反して初めて犯罪なのに、
禁止する法律がないどころか「戦時国際法」があります。

戦争がダメなら
「戦争するならこういう方法で」が存在するわけがありません。
パリ条約でさえ自衛戦争を否定していないのですから
戦争は批判の対象にはなりません。

敵が攻め入ってきたから守るために命を掛けて戦って、
勝てばお咎めなしで、負ければ法律で裁かれるというのは意味不明です。
批判や裁きを受けるのは攻め入ってきた外側であって内側ではありません。

戦争が起こる理由が、戦いが始まって勝敗が決まってから
「負けた方に決まる」というのでは防ぐ方法はありません。

批判してる人は結果論で、
戦争したら「相手の言う通り撤退すれば戦争防げたのに」と言い、
相手の言う通り撤退すれば「あのとき弱腰で撤退せず戦ってれば
相手はこんな増長せず抵抗できない状態にはならなかったのに」と言って、
結果「日本は馬鹿だなぁ」と言いたいだけの無責任な人です。

上海共同租界の日本軍駐留等の権利は
英米と同じ法律で行なっている完全合法行為です。

これに対して無差別爆撃をした蒋介石の行動は何の法的根拠もありません。
無論これへの自衛が違法なわけがなく、
よってこの蒋介石のテロを支援したり、
自衛した日本を制裁するのは違法であり不当となります。

英米支ともども順法でなかったから、あの戦争は起こったのです。

支那事変は蒋介石の侵略攻撃なので抗戦しなければ負けます。
合法権利も不当に奪われます。

対して英米がテロ支那を支援する自衛的理由はありません。
日本を制裁することも何の自衛でもありません。
援蒋と不当制裁がなければ英米と戦っていませんし、
援蒋だけでも不当ですが日本は我慢して合法遮断に徹しました。

援蒋及び不当制裁されているので延ばせば延ばす程、
日本は不利な状況になり、戦わなければ資源が底を突き、
史実の初期戦勝も無理になるのです。

不当経済制裁されていたから、その国が持つ資源(植民地)を奪取、
つまり開戦したのです。
奪わなければ時間、日にちと共に
資源武器弾薬燃料が底をついて戦えなくなります。

8月に全面禁輸されて4ヶ月も我慢して平和的解決に尽力して、
もう限界でした。

批判するなら対案を示すべきです。

攻撃されたから応戦、反撃したまでで、
攻撃されなかったならば「アジア開放のため」という理由だけで
日本から米英に戦争を仕掛けるはずはありませんでした。
1943年(昭和18年)11月6日の大東亜会議にて採択された
大東亜共同宣言で日本はアジア諸国の独立を承認していますので、
国際法上はアジアを解放したといえますし、同共同宣言において、
それを成すための戦争継続が明記されていますので、
アジア解放戦争で間違いありませんが、
日本からすればアジア開放が第一の目的ではなく、
第二次上海事変や援蒋、対日経済制裁という原因あっての大東亜戦争であり、
第一の目的は自存自衛であって、アジア解放はいわばその手段とも言えます。
(アジア開放で自由貿易できるようにして資源確保で生き延びるという事)

戦争遂行のために敵地から物資を頂戴することは禁止されておらず、
敵・白人列強の持ち物である東アジアを奪取したのですが、
日本はそこを植民地にはせず大東亜共同宣言で独立を承認しました。

※蒋介石軍、あるいは、それに追随した英米と戦わなければ、
国際法に則った日本の権利や、現地邦人の命が危ぶまれる事態でした。
国民の生命と財産を守るのは国家の義務です。
宣戦布告後、敵の物資奪取(植民地奪取)は包囲網という事実がある以上、
ハーグ陸戦条約 第2款 第1章 第23条「禁止事項」
「7.戦争の必要上、やむを得ない場合を除く敵財産の破壊または押収。」
には違反しておらず、国際法違反ではありません。

昭和天皇の【大東亜戦争 開戦の詔勅】を見ても、
当時の日本が、この記事と同じ認識であったことが分かります。
↓↓↓
大東亜戦争 開戦の詔勅 (現代語訳文)

神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、
忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。

私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。

私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、
私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、
私の国民はおのおのその本分をつくし、
一億の心をひとつにして国家の総力を挙げ
この戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。

そもそも、東アジアの安定を確保して、
世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、
その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、
遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。

そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、
帝国の外交の要としているところである。
今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。
まことにやむをえない事態となった。
このような事態は、私の本意ではない。

中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、
みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、
ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。

さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。
帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、
ともに提携するようになったが、
重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、
兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。

米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、
平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。

あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、
わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、
ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。

私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとし、
長い間、忍耐してきたが、米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、
むやみに事態の解決を遅らせようとし、
その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、
それによって我が国を屈服させようとしている。

このような事態がこのまま続けば、
東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、
ことごとく水の泡となり、
帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。

ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、
決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。

皇祖皇宗の神霊をいただき、
私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、
すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、
それによって帝国の光栄の保全を期すものである。

天皇の署名と印

昭和十六年十二月八日

―――――

とまと船

せきやさん、丁寧にお返事いただき、ありがとうございますのぜ!

せきやさんの認識は、開戦時の日本政府、特に陸軍の考え、
立場と同じ気がしました。是非が云々というわけではないです。
正しいか悪かは、立場によってもひっくりかえるものと思っています。

ただ、柳条湖事件でも張作霖爆殺事件でも、
どちらも敵方の仕業と断ずるのも一つの説であり、
関東軍の仕業という説が否定されたわけでもないと思います。
また、盧溝橋事件にしても、
銃弾が敵方のものだという確たる証拠は無かったという認識です。

証拠不十分である以上、日本は悪いことをしていないとも
言い切れないかと思いました。
ただ、当時の日本軍としては、
国益のための「良いこと」をしていたのでしょう。
また、それは当然、中国の人にとっては、
領土主権を脅かされる「悪いこと」であったにちがいないと思います。

対案について、申し訳ないのですが私では考えられません。
当時政府にいても、押されて同じことをしたと思います。
当時の軍部は、もはや非軍属の大臣では制御不能なほどの
強硬な態度をとっていたと認識しています。

―――――

せきや

とまと船さん

私の記事本文とコメント欄のコメントを本当に読みましたか?

満洲事変は1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で終結。

盧溝橋事件は1937年7月11日の『松井-秦徳純・停戦協定』で終結。

支那事変・大東亜戦争の発端は、
あきらかに1937年8月13日~の第二次上海事変です。

上海共同租界内で米英伊軍と日本軍が役割分担で
警備地区を決めて警備していたんですよ?
日本軍は日本人町を含む東側を警備していました。

上海共同租界内に日本人が居留したり日本軍が駐留していたのは
条約による合法行為だったんです。

上海共同租界の外から蒋介石軍がやってきて武力攻撃してきたんです。
それに対して日本軍は応戦・反撃していたんですよ?
アメリカは蒋介石側に資金・武器支援し、
日本に対しては経済制裁したんです。

>当時の日本軍としては、
>国益のための「良いこと」をしていたのでしょう。

だから、あなたの言う「日本は良い事をしていた」というのは、
いったい何の事を言っているのですか?

「良い事をしていたのに蒋介石軍に攻撃された」

じゃなくて、

「何も悪い事はしていないのに蒋介石軍は上海共同租界の
日本民間人居留区域を武力テロ攻撃してきた」

のですよ?

>それは当然、中国の人にとっては、
>領土主権を脅かされる「悪いこと」であったにちがいないと思います。

あのね、条約による合法駐留・合法居留なんです。
「条約」というのは両国が合意したということです。
支那が「日本人や日本軍は支那に居ていいですよ」
と認めたから居たんですよ?
支那が認めてるのに何で
「支那人にとっては領土主権を脅かされる悪い事」
になるのですか?

もともと上海は1840年・英清アヘン戦争の戦後条約で
イギリスが租借して得たもので、
上海共同租界の行政機関である工部局の
外国人職員のほとんどはイギリス人で、
工部局の最高意志決定機関の参事会の参事は
年一度の選挙で選出されてはいたものの、
事前に候補者は調整されていて、
定員9名のうちイギリス人7名、
アメリカ人1名、ドイツ人1名の構成が続いていましたが、
第一次大戦でイギリスとドイツが戦うことになったため、
ドイツ人を参事会から排除し、
代わりに日本人が参事に加わることとなり、
1915年に初めて日本人1人が参事会のメンバーに
選出されて日本が工部局行政に参加することになり、
翌1916年、工部局警察内に日本警察隊が創設され、
日本人が多く居住する虹口地区の治安維持強化のため、
日本の警視庁から30名の警察官が派遣され、
少数ではありましたが治安の悪さに悩まされていた
日本人居留民の期待に応えました。
約20ヵ国の居留民が暮らすなか、
各国の領事館内警察外の上海共同租界で、
どの国も警察官が活動できていたわけではなく、
日本は治安維持に努力していたほうだと思います。

上海共同租界の行政機関である工部局の決定によって、
欧米軍や日本軍が上海共同租界の各地区を警備分担していました。

確認ですが、上海国際共同租界は日本領ではありません。
上海国際共同租界のなかの比較的、日本人が多く住んでいた虹口地区が
通称「日本租界」と呼ばれていた日本人町(日本人居留区)で、
正式な日本租界ということではありませんでしたし、
虹口地区には日本人だけでなく欧米人や中国人も住んでいたのですが、
その日本人町だけが「蒋介石の地上軍」に武力攻撃を受け、

(蒋介石軍の一部はフランス租界にも侵入したため、
一時的にフランスの警官隊とも銃撃戦になった。)

「蒋介石軍の爆撃機」は日本人町だけでなく、
上海国際共同租界の、あちこちに無差別爆撃を行ないました。
「蒋介石軍の爆撃機」は日本人町を標的にしたけど、
正確に爆弾を落とすことができずに日本人町以外にも無差別爆撃する
結果になったのか、わざと日本人町以外も爆撃したのかは不明ですが、
蒋介石は「日本軍機が無差別爆撃をやった」と世界に宣伝しました。

しかし上海国際共同租界内には約20ヵ国の居留民が暮らしていて、
各国の領事館もありましたので、
蒋介石軍機が無差別爆撃をやっていたことは皆わかっていたはずです。

実質、上海共同租界を支配していたのはイギリスで、
そのイギリスには上海共同租界内の治安を維持し、
居留民の生命・財産を守る責務があったのですが、
上海共同租界内の日本人居留区が蒋介石軍に武力攻撃されたり、
上海共同租界の日本人居留区以外の地区も蒋介石軍に無差別爆撃され、
日本人に限らず、欧米人や中国人を含む
約3000人もの居留民が犠牲になり、
租界内の多くの建物が破壊されているにも関わらず、
日本軍と一緒に蒋介石軍と戦うどころか、
逆にイギリスやアメリカなどは
蒋介石側に資金・武器テロ支援をしました。

蒋介石は英米などからの強力な資金・武器支援が続けられているので、
日本から蒋介石への、たび重なる和平提案を蒋介石は拒否し続けました。
米英は、日本と中国(蒋介石)の戦争を終わらせてくれなかったのです。

英米が蒋介石に武器を輸送する援蒋ルート遮断のため、
日本は仏印と話し合い、
条約を結んで合法的に日本軍は仏印に進駐しました。

「仏印が弱っているときに日本が話し合いを持ちかけた」
と批判する人がいますが、
日本が、うまく外交できなかったら無能だとバカにし、
うまく外交できたら、ひどいことをしたと非難する・・・
結局は何でも批判しておけばいいという批判です。

相手が弱っているとき、自国に有利な条約を結ぶというのは、
うまく外交をやったということであって、
相手が強い立場になるのを待ってから
外交交渉を持ちかけるというのは、
それこそ無能だと批判されるのではないでしょうか。

仏印と話し合って、条約で進駐したのですから、
なんら批判されることではありません。

1937.8.13~第二次上海事変で
蒋介石から不法テロ攻撃を受けて日本は戦っているのに、
米英が援蒋するから蒋介石は日本からの和平交渉を拒否し続け、
テロ蒋介石側にテロ支援してるのが米英で、
その援蒋ルート遮断のために条約によって合法的に
日本軍は仏印に進駐しているわけで、
仏印進駐は国際法に則っての駐留なので批判される理由はありません。
権益地との距離が縮まっただけで経済制裁を発動して良いなんて、
どこの無法者の理屈なのでしょうか。
米英がテロ支援しなければ仏印進駐などしなくて良かったのです。

日本が仏印進駐すると英米蘭は日本に対して石油禁輸をしてきました。

英米による蒋介石への資金・武器支援や、
日本に対する経済制裁などは、
英米にとって何の自衛でもありませんでした。

アメリカは国連か何かのつもりだったのか、
日本に中国から出て行くよう要求していましたが、
なぜ中国から出て行かなければならないのか、
なぜアメリカ一国の言うことを聞かなければならないのか、
被害側の日本にとっては、まったく意味不明なことでした。

日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるため、
先手を打って真珠湾攻撃しました。(日米戦争)

支那事変から日米戦争までを総称して大東亜戦争といいます。

蒋介石軍が1932年の上海停戦協定に違反して協定線内に侵入し、
上海共同租界の日本人町を武力攻撃してきたんですよ?
それに応戦した日本軍が、なぜ悪いのですか?
どうすれば良かったのですか?
相手は全部で10万人の軍隊ですよ。
対して日本海軍陸戦隊は4000人くらいでした。
日本から応援の上海派遣軍を送ったことは間違っていたのですか?

欧米軍は何もしてくれないどころか、
欧米は蒋介石のほうに資金・武器支援し、
日本に対しては経済制裁してきたのですよ?

日本人・日本軍だけが条約で支那にいたのではありません。
欧米人・欧米軍も条約で支那にいたのです。

上海共同租界には多くの外国人が居留していました。
日本軍だけでなく米英伊軍も上海共同租界を警備していたんです。

日本は最初からアジアにいます。建国からずっとです。
そこに白人列強が進入してきました。
独立自存を守るため必死にもがいたところの
どこに非があるのでしょうか。

客観的に見れば、
なおさら日本は東亜百年戦争の犠牲者であって
白人列強を擁護できる事実はありません。

日本やアジアが何か悪いことしたからアジアはほぼ植民地になり
日本を取り囲むように軍艦を配備したのでしょうか。

「白人も悪いが日本も悪い」とか言えば
中立的で客観視できていると勘違いしているに過ぎません。

悪いとか言うならば具体的に何が原因かを明記して、
その不当性の証明と代案の提示が必要です。

批判する行為(仏印駐留など)が違法で、
自衛とは無関係という証明、それが無くても窮しない根拠、
課題(援蒋遮断するには)解決の代案が提示されなければ
客観視のための材料になりません。

戦争を避けるためなら
英米の言うとおり全支撤退をすれば良かったんです。
英米に従属すればよかったんです。
でもそれは何の解決にもなりません。

援蒋はおろか、
白人列強がアジアに来なければ起こらなかった問題なのに、
必死になって「日本の非」を作り出すことが客観視なのでしょうか。

―――――

とまと船

せきやさん、丁寧にありがとうございます。

>私の記事本文とコメント欄のコメントを本当に読みましたか?

読みました。ただ、全てをイキナリは、信じられていないだけです。
自分がこれまで学んできたことと大分異なる見方ですから。
機会をみつけて、より深く、自分でも調べてみようと思います。

>満洲事変は1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で終結。
>盧溝橋事件は1937年7月11日の『松井-秦徳純・停戦協定』で終結。

例えば盧溝橋事件では、

===盧溝橋事件==========================
満州事変のさいのような軍部の謀略は存在しなかったが、
現地では小さな紛争が続いていた。
その直接の原因は、十一年三月に、
北支駐屯軍を三千名から五千名に増員することが決定され、
五月に実施された事にあった。
中国政府の諒解なしに行われたこの増兵が、
中国側には、日本の華北侵略の計画的一環である、
と受け取られたのは当然であった。

このやり方は、最初から、
増派した軍隊をどこに置くかという問題にぶつかった。

初め、日本側が増兵駐屯地として考えたのは、
冀東政権のある通州であったが、
これは(華北駐屯の根拠である北清事変講和での取り決めの)
指定外の場所であり、
国際問題化するとうるさいというので、豊台が選ばれた。
豊台も指定地外であるが、以前イギリス軍が駐屯したさいに、
中国側は文句を言わなかったので大丈夫というのであった。
豊台は北京郊外、盧溝橋を西にのぞむという場所であった。
しかし、豊台と決めても場所がない。
とりあえず一大隊だけここに置き、残りを北京と天津に収容したが、
その一大隊の兵舎も鉄道用地として買収したところに建てたバラックであり、
駐屯軍は豊台と盧溝橋のあいだの広い土地を買収して
本建築の兵舎をつくろうと企てた。

これに対して、中国側は地主に土地を売ることを禁じて対抗、
いっこうに交渉はすすまず、
この間、中国兵との小競り合いが行われたこともあった。
土地の買収は進まなかったが、
日本軍は勝手にこの荒地を訓練の場所に使用した。
中国側はこれに抗議したが、聞き入れられなかった。

↑中公文庫刊『日本の歴史<25>太平洋戦争』著:林 茂
56ページ~57ページ抜粋
林 茂(はやし しげる)
1912年(明治四十五年)、和歌山県に生まれる。
1936年(昭和十一年)、東京帝国大学法学部政治学科卒業後
京城帝国大学法文学部助教授、戦後、東京大学社会科学研究所教授を経て
名誉教授 その後、神奈川大学教授、オックスフォード大学、
聖アントニーズ・カレッジ・日本研究所教授を歴任。
1987年(昭和六十二年)逝去。
==================================

これを見ると、事件の以前に、
日本側も中国の土地の勝手使用があったみたいです。
そして中国側の言い分は無視。
もうこれらの段階から中国側の恨みを買っていて、
一触即発の状態だったと思います。
「終結」は国際法上の取り決めかもしれませんが、
出先の代表は納得しても、(どちらが先に手出ししたか不明ですが)
限定地域の小競り合いから始まって、
日本に領土を次々に支配されてしまうことは、
現地一般人から軍閥にいたるまでの不興を買わないわけがない。

日本で考えると、国際法で大阪に各国租界が作られ、
そこで某国の態度が現地民の反感を買っており、
一触即発の状態から小競り合いが起きて東京(当時中国でいう南京)
まで占領されてしまった・・・
というケースに相当するんじゃないでしょうか。
国際法に沿っていたとしても、何故またヨソの国の高圧的な奴らに
首都を占領されて、怖気づいて暮らさなければならんのか?
という感情にはなるでしょう。

>支那事変・大東亜戦争の発端は、
>あきらかに1937年8月13日~の第二次上海事変です。

国際法の遵守に沿って捉えるなら、きっとそうなのでしょう。 
ただその前から、日本の強硬な態度に、
現地の人たちは激しく反発していたのではないでしょうか?
そして、中国側の反日・侮日感情と日本側の中国蔑視
(叩いて中国を大人しくさせれば良いという考え)
が日中戦争を引き起こしたのではないでしょうか。

記事の、
>一つ一つの軍事作戦がどうだったとか、
>戦争中に戦争犯罪が起きたかどうかとか、
>そういう事よりも、大東亜戦争の大きな流れが一番大事です。

この大きな流れに沿うと、一つ一つの事件はそれで「国際法解決」、
完結してもう終わりだったのでしょうか?
終わりでなかったから、泥沼の大きな戦火になったのではないでしょうか。

>上海共同租界内で米英伊軍と日本軍が役割分担で
>警備地区を決めて警備していたんですよ?
>日本軍は日本人町を含む東側を警備していました。

>上海共同租界内に日本人が居留したり日本軍が駐留していたのは
>条約による合法行為だったんです。

先の書籍によると、土地の勝手使用などの不法行為もしていたみたいです。
合法というより、
「国際問題にならなければ、現地の土地所有権や抗議など構わん」
という不遜な態度があったのではないでしょうか。

>上海共同租界の外から蒋介石軍がやってきて武力攻撃してきたんです。
>それに対して日本軍は応戦・反撃していたんですよ?
>アメリカは蒋介石側に資金・武器支援し、
>日本に対しては経済制裁したんです。

気になったのですが、アメリカの行為は、
一体何の国際法違反に引っかかるのですか?
援助したい方に援助し、
そうでないほうに禁輸するのは自由でないのですか?

>>当時の日本軍としては、
>>国益のための「良いこと」をしていたのでしょう。

>だから、あなたの言う「日本は良い事をしていた」というのは、
>いったい何の事を言っているのですか?

「中国大陸で自国の影響範囲、実効支配地を広げる事」が、
当時日本世論からみると「国益にかなう良いこと」だったのでしょう。
と言ったつもりでした。表現が未熟で申し訳ありません。

>「良い事をしていたのに蒋介石軍に攻撃された」
>じゃなくて、
>「何も悪い事はしていないのに蒋介石軍は上海共同租界の
>日本民間人居留区域を武力テロ攻撃してきた」
>のですよ?

「何も悪いことをしていない」というのも、絶対ではなくて、
一つの見方かな。と思っているだけです。

また、「何も悪いことをしていない」ということの反証は至極簡単で、
法に沿ってないことを一つでも見つければいいだけと思っています。
なので、言い切るのは極端じゃないかな、と、個人的には思いました。

具体的な「悪いこと」として、先の書籍で上げた土地の
不法使用もその一つに挙げられるでしょう。
あれが「悪いことでない」としたら、
「条約指定外の中国領土においても、日本の人が法律」
ということになります。
これは「国際法違反」にはあたらないでしょうか?

>あのね、条約による合法駐留・合法居留なんです。
>「条約」というのは両国が合意したということです。
>支那が「日本人や日本軍は支那に居ていいですよ」
>と認めたから居たんですよ?
>支那が認めてるのに何で
>「支那人にとっては領土主権を脅かされる悪い事」
>になるのですか?

先の書籍で言っていることが真実なら、
条約外の地に違法駐留して文句を言われているみたいです。
これが中国人にとっての
「領土主権を脅かされる悪いこと」になると思っています。

>もともと上海は1840年・英清アヘン戦争の戦後条約で
>イギリスが租借して得たもので、


すごい知識!感服いたします。
その知識を、今後も記事で読み、勉強したいです。
恐らく、多くの人が興味を持って読まれるのではないでしょうか。

>蒋介石は英米などからの強力な資金・武器支援が続けられているので、
>日本から蒋介石への、たび重なる和平提案を蒋介石は拒否し続けました。
>米英は、日本と中国(蒋介石)の戦争を終わらせてくれなかったのです。

米英は、満州権益を狙っていたでしょうね。
そのために、日本が中国大陸で支配権を広げるのを
阻止しようとしていたのだと思っています。

時間の都合で、すべてにレスを付けられませんでした。
続きは、また別の日に! よろしくお願いいたします。

―――――

せきや

私は今まで「左巻き」や「アメリカ保守」と議論してきました。
「左巻き」も「アメリカ保守」も同じ事を言ってきます。
ですから私から見たら「左巻き」=「アメリカ保守」です。
日本には「中韓左巻き」か「アメリカ保守」しかいないと
言っていいほど日本の立場から考える日本視点の日本派がいません。

日本以外の国については違法合法など関係なく、
何か適当な理由をつけて問題視せず、

日本だけは違法はもちろん、
たとえ合法であっても日本だけは許されない!
という人が多いですね。

その反日が自国の人間なのですから、
もう日本は滅びていくと思います。
私のように自国の立場で考える人を見たことがありますか?
有名な保守的な人でさえアメリカ保守が多いですよ。

なぜか日本人は勝手に裁判官の席に座っていたり、
検察側の席に座っちゃってる人が多いんです。

いま現在でも日本人は被告席に座らされているのですよ?
いまだに賠償しろと言われたり、
中国を筆頭に反日映画が作られて世界中で上映されています。
日本のNHKの反日番組も世界中で放送されています。

このことは昔話では済まない事態になっていく恐れがあります。
日本人の子供がイジメられ、日本人の大人も差別され、
世界中の、あらゆる日本の活動、日本人の経済活動、生活が
脅かされていく恐れがあるのです。

何のために、この平和な日本で勉強するのでしょう?
自国を攻撃するために勉強するのでしょうか?
自国を不利にするため、
自国を愛せない自国民を育てるために勉強するのでしょうか?

だれが我々の御先祖様の側に立って弁護してくれますか?
外国人が反論してくれますか?
われわれ日本人が、しっかりと反論すべきなのです。

なぜ確たる証拠もない事案について
「100%日本が悪かった」ことにしないといけないのでしょう?
徹底的に反論し、確たる証拠がないものについては、
最悪でも引き分けにもっていくべきです。

私のように、どこまでも日本視点で発言する人が、
かなりの人数がいてこそ健全な言論空間ではないでしょうか?
この現在の日本の状況、
つまり、ほとんど日本視点で発言する人がいない状態は
異常だと気づくべきです。

>満州事変のさいのような軍部の謀略は存在しなかったが

なぜ決め付けているのでしょう?
もう説明しましたが、
満州事変の発端となった柳条湖事件については、
大東亜戦争の戦中・戦前は「犯人は支那軍」が通説で、
戦後になって検証しようのない証言が出てきて
「犯人は日本軍」説になってしまいました。
もう、一行目の、決め付けている時点で反論したいですね。
確たる証拠を出してもらおうではありませんか。

ところで私は以後、あなたが紹介する本と
議論していくことになるのでしょうか?

>現地では小さな紛争が続いていた。

すべて支那側からの攻撃であることを語ってほしいですね。
こっちから攻撃する利点はないんですよ。
支那軍が攻撃してくるから反撃していたんです。

>(盧溝橋事件)その直接の原因は、十一年三月に、
>北支駐屯軍を三千名から五千名に増員することが決定され、
>五月に実施された事にあった。
>中国政府の諒解なしに行われたこの増兵が、

北京議定書では、兵の増減について、
支那政府への事前通告や協議などの義務は規定されておらず、
駐兵権を有する列国の判断に委ねられていました。
列国は毎月お互いの兵力を報告し合っており、
その際、他の列国に通知すればいいだけでした。

1901年 北京議定書 締結の際、
日本に割り当てられた兵数は1570名でしたが、
長征で共産軍の一部が山西省に侵入した事を
日本陸軍が重視した事に伴い、支那北部における日本の権益と
北平・天津地方で増加する日本居留民の生命財産を保護する
兵力の不足が心配されたこと等の理由により、
日本軍北支那駐屯軍は1936年6月、1570名から5774名に増強し、
主力を天津に、更に北平城内と北平の西南にある豊台に
一部隊ずつを置きました。

これに対して、北支に展開する国民政府29軍の兵数は10万人であり、
このような状況下で
日本軍から紛争を起こすなど考えられないことでした。

>中国側には、日本の華北侵略の計画的一環である、
>と受け取られたのは当然であった。

◆1935年(昭和10年)6月10日、「梅津・何応欽協定」。
1935年(昭和10年)に入ると河北省において
国民党や中央直系軍などによる反日満活動が活発になり、
1935年1月~5月までに反日満事件が大小五十数件にものぼった。
そこで日本側と支那側が交渉し、
6月10日、「梅津・何応欽協定」が結ばれ、
支那の国民政府が支那全国に排日禁止令を出し、
国民党や中央直系軍が河北省から撤退することが合意された。

◆1935年(昭和10年)6月27日、「土肥原・秦徳純協定」。
察哈爾(チャハル)省に駐屯していた
中央軍第29軍(軍長:宋哲元)は、
1934年(昭和9年)後半から翌1935年にかけて、
塘沽停戦協定で設定されていた緩衝地帯(非戦地区)や
満州の熱河省内に侵入するなど、
相次いで対日満武力挑発事件を起こしていたので、
日本側と支那側が交渉し、
6月27日、「土肥原・秦徳純協定」が結ばれ、
チャハル省内の排日機関が撤去され、
中央軍第29軍がチャハル省から撤退し、
河北省の北平方面に移駐した。

◆1937年(昭和12年)8月9日~10月17日、
チャハル作戦(察哈爾作戦)。

日本軍が察哈爾省・綏遠省(内モンゴル自治区)にて
行なった作戦である。

モンゴル(蒙古)族は支那からの独立を目指していた。

1932年、満州国が建国されると、
華北でも自治の機運が高まった。

※ちなみにゴビ砂漠の南側が
「内蒙古=蒙疆」、北側が「外蒙古」。

モンゴル族の独立派リーダーは内蒙古(内モンゴル)の
察哈爾(チャハル)部の王族の一人であった「徳王」で、
内蒙古・外蒙古・ソ連領ブリヤート(北蒙)を統一し、
大モンゴルを再興する「汎蒙古主義」を掲げて国民政府と交渉し、
1934年4月、蒙古地方自治政務委員会(百霊廟蒙政会)を組織した。

国民政府は翌1935年の「冀東政権に対抗して冀察政権」と同様、
その百霊廟蒙政会に対抗して、1936年1月、
綏遠省境内蒙古各盟旗地方自治政務委員会(綏境蒙政会)
を創設した。

1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で
河北省の東(冀東)は
緩衝地帯(非戦地区→通称「戦区」、非武装地帯)
となっていたが、河北省の上の察哈爾(チャハル)省の東側には
緩衝地帯は設定されておらず、満州と直接、接しており、
チャハル省に駐屯の中央軍第29軍(軍長:宋哲元)などが、
たびたび満州に侵入していた。

日本軍はチャハル省の東側にも緩衝地帯を設定したかったのだが、
1935年(昭和10年)6月27日の「土肥原・秦徳純協定」によって、
チャハル省から中央軍第29軍が
河北省の北平方面に移駐したことにより、
チャハル省が緩衝地帯のようになり、
満州と支那の国境すべてに緩衝地帯が実現されたことは、
モンゴル独立派の徳王から見ても関東軍と利害が一致しており、
徳王は関東軍との連携を模索した。

1936年(昭和11年)11月、綏遠にてモンゴル独立軍と支那軍とで
衝突が起こったがモンゴル軍は苦戦していた。
(綏遠(すいえん)事件)。
このとき関東軍はモンゴル独立軍を支援したが
直接は戦っていなかった。

1936年11月25日、日本はドイツと日独防共協定を締結し、
その第二条に「第三国に対する反共の防衛措置」があった。
翌12月12日の西安事件で国共合作後の容共中央軍は、
防共戦を唱えて関東軍と連携していた反共・徳王と対立しており、
日独防共協定・第二条「第三国に対する反共の防衛措置」
の側面もあるなか、

1937年7月7日の盧溝橋事件後、
再度、察哈爾省に中央軍第29軍が侵入していたので、
それは察哈爾省から中央軍第29軍を撤退させることを
謳った『土肥原・秦徳純協定』に違反しているうえ、
日本が察哈爾省内で徳王を支援する正当な行為は
『土肥原・秦徳純協定』のなかで認められており、
合法であった。

1937年8月5日、関東軍は察哈爾(チャハル)への
中央軍の侵入は看過できないので速やかに
部隊を派遣すべきであると参謀本部に意見を具申し、
8月8日、参謀本部は察哈爾(チャハル)作戦を容認。
東條英機中将を指揮官とする察哈爾派遣兵団が形成され、
日本軍が直接、戦うこととなり、またたく間に占領した。

これがチャハル作戦である。

徳王モンゴルは「蒙古連盟自治政府」で自治を果たした。

「土肥原・秦徳純協定」に基づくモンゴル自治独立支援であった。

ちなみに、チャハル作戦の話をすると、
「陽高事件」なる話を始める人がいる。
日本軍が中国民間人を虐殺をしたという話なのだが、
秦郁彦氏が唱えているものが殆どで詳細は何もわかっていない。
誰が命令し、どの部隊が実行したのか、すべて不明である。

【日本軍の「豊台」駐屯への批判について】

豊台は北京から山海関までの北寧路線(京奉線)沿線にある。
北京議定書の締結国の指揮官会議でも豊台は守備区域として
認識されていたからこそ、
イギリス軍が1911年から1926年まで豊台に駐留して
周辺の警備を担当していたのであり、
当然ながら日本の豊台駐留に対して
他の駐留国が日本に抗議することもなかった。

それまで北京議定書締約各国が任意に、
単に通告のみで兵力量や駐留地点を情勢に応じて
融通無碍に決定してきたという慣例があったから、
北平の日本人の増加が著しい状況に対応し、
日本人の保護のために、
北平~山海関を結ぶ北寧路線(京奉線)沿線で
黄村と同じ北京市内にあり、
1911年から1926年まで英国軍が駐留していた豊台に
歩兵隊の一部を派遣する事には
条約上の差し支えは無しとしたものだった。

当初は豊台ではなく通州に置こうとしていたが、
梅津陸軍次官が、北清事変最終議定書の趣旨に則れば
京津鉄道から離れた通州は駄目だと反対したので、
その代わり北京の西南4キロの豊台に一個大隊を
置くこととなった経緯があり、日本が可能な限り
議定書順守に気を遣っていた事が伺えるが、
結果としては通州に置いていれば
通州事件は起きなかったかもしれない。

>もうこれらの段階から中国側の恨みを買っていて、
>一触即発の状態だったと思います。

なんでイギリス軍の豊台駐留は問題にならなくて、
日本軍の豊台駐留だけ問題になるのですか?
あなた日本人なら、そこに疑問を感じないのですか?

東京裁判での弁護側による「中華民国に関する立証」の際に、
サットン検事補が弁護側証人として出廷し、
河辺正三大将(当該時期に支那駐屯軍歩兵旅団長)に尋問するなかで、
日本軍の「豊台」駐屯について疑義を呈しましたが、
尋問は裁判長に打ち切られました。
「豊台駐留」を掘り下げると、
「イギリス軍の駐留は良かったのか?」
となるから尋問を打ち切ったとしか思えませんが?

●サットン検察官
「豊台は北京議定書の第9条にある12地点の中に入っていません。
日本は豊台を占領する権利はありませんでした。違いますか?」

●ウェッブ裁判長
「それは論評と称せられるべきものです。
信憑性の問題には達しません。」

>「終結」は国際法上の取り決めかもしれませんが、
>出先の代表は納得しても、(どちらが先に手出ししたか不明ですが)

支那の治安がメチャクチャ悪いから
自国民保護のために条約で駐留しているのに、
日本軍のほうから支那軍を攻撃して何の得があるんですかね?
日本の民間人も治安が維持されることを望んでいるんです。
戦争になったら治安どころか、
そこに居ることさえできなくなるではありませんか。

相手の軍代表と停戦協定を結ばず、
だれと停戦協定を結べばいいのですか?

>限定地域の小競り合いから始まって、
>日本に領土を次々に支配されてしまうことは、
>現地一般人から軍閥にいたるまでの不興を買わないわけがない。

支那軍が反撃してきて応戦して日本軍が優勢になって、
停戦協定を結ぶというパターンばかりです。
そもそも攻撃して来なきゃいいんですよ。
なんで相手も停戦協定を結ぶんですかね?

相手の代表が停戦協定を結んだら、
相手の代表が自国民に説明して納得させる義務があります。

>日本で考えると、国際法で大阪に各国租界が作られ、
>そこで某国の態度が現地民の反感を買っており、

なんで日本だけが武力攻撃されなきゃいけないんですか?
ほかの10ヵ国の軍隊は駐留して問題ないのに、
なぜ同じ条約「北京議定書」で駐留している
日本軍だけを武力攻撃するんですか?
攻撃されたら応戦していいですよね?

日米安全保障条約で
アメリカ軍が日本に駐留しているからといって、
いつでも自衛隊はアメリカ軍を攻撃していいんですか?

>一触即発の状態から小競り合いが起きて
>東京(当時中国でいう南京)まで占領されてしまった・・・
>というケースに相当するんじゃないでしょうか。
>国際法に沿っていたとしても、
>何故またヨソの国の高圧的な奴らに首都を占領されて、
>怖気づいて暮らさなければならんのか?
>という感情にはなるでしょう。

普通に経済活動してるのに、なんで武力攻撃してくるの?
武力攻撃してくるほうが悪いでしょ?
上海共同租界は日本領じゃないんですよ?
上海共同租界に日本租界を作りたいと希望しましたが
イギリスが反対して作らせてもらえませんでした。
蒋介石軍は上海共同租界のなかの
日本人町を攻撃してきたんですよ?

日本にも1863年6月から英仏両国が
英仏居留民の保護、居留地の防衛を名目に
イギリス軍、フランス軍が横浜に駐留していました。
1863年4月8日、英仏両国は横浜に英仏軍を駐留させることを
江戸幕府に通告し、幕府はこれを受け入れざるを得ず、
同年5月18日、英仏は幕府と正式な文書を交わし、
翌6月より山手に両軍隊の駐屯が開始され、
その兵舎などの設営・補修などの経費は、
江戸幕府および明治政府の「思いやり予算」とされました。
明治政府成立後、外国軍隊の駐屯は
日本の国家主権を侵すものとして
撤退を要求し、1871年にイギリス軍が駐屯軍の大幅削減に応じ、
1875年(明治8年)3月2日に両軍の全面撤退が完了しました。
日本は条約で駐留していた外国軍隊を
武力で排除したのではなく、
外交交渉で条約によって外国軍隊の撤退を実現したのでした。

>現地の人たちは激しく反発していたのではないでしょうか?
>そして、中国側の反日・侮日感情と日本側の中国蔑視
>(叩いて中国を大人しくさせれば良いという考え)
>が日中戦争を引き起こしたのではないでしょうか。

逆でしょ。
支那軍は悪かったんです。
自国民にも、ひどいことばかりしていました。
日本軍が管理していた地域は支那人にも人気があったんです。
日本兵は悪い事をしないし、治安が良くなるからです。

>>一つ一つの軍事作戦がどうだったとか、
>>戦争中に戦争犯罪が起きたかどうかとか、
>>そういう事よりも、大東亜戦争の大きな流れが一番大事です。

>この大きな流れに沿うと、
>一つ一つの事件はそれで「国際法解決」、
>完結してもう終わりだったのでしょうか?
>終わりでなかったから、
>泥沼の大きな戦火になったのではないでしょうか。

私が言いたいのは、
当時の政治・軍の体制がどうのこうの注目されたり、
特攻作戦やインパール作戦などの一つ一つの軍事作戦が、
どうのこうの注目されたり、
従軍慰安婦や、いわゆる「南京大虐殺」などが注目されたり
する事が多いですが、
それはそれで考えればいいのですが、
大東亜戦争の大きな流れ、
全体を通して歴史を見て考える人が少ないと言いたいのです。

>>上海共同租界内で米英伊軍と日本軍が役割分担で
>>警備地区を決めて警備していたんですよ?
>>日本軍は日本人町を含む東側を警備していました。
>>上海共同租界内に日本人が居留したり日本軍が駐留していたのは
>>条約による合法行為だったんです。

>先の書籍によると、
>土地の勝手使用などの不法行為もしていたみたいです。
>合法というより、
>「国際問題にならなければ、現地の土地所有権や抗議など構わん」
>という不遜な態度があったのではないでしょうか。

上海共同租界は勝手な土地使用ではありませんし、
何度も言いますが日本租界じゃないんですよ。
実質イギリス領だといっても過言ではありませんでした。
租界は無期限だったので。

上海共同租界が気に入らないなら
上海共同租界の国会にあたる参事会に言えばいいじゃないですか。
なんで、いきなり上海共同租界内の日本人町を攻撃するんですか?
日本人町は日本領じゃないんですよ?
単に日本人が多く住んでいるというだけの地域ですよ。
支那人も欧米人も住んでいたんです。

日中紛争が起こったら、
どこかの国のなかの中国人町を武力攻撃していいんですか?

あなたメチャクチャですよ。

>>上海共同租界の外から蒋介石軍が
>>やってきて武力攻撃してきたんです。
>>それに対して日本軍は応戦・反撃していたんですよ?
>>アメリカは蒋介石側に資金・武器支援し、
>>日本に対しては経済制裁したんです。

>気になったのですが、
>アメリカの行為は、一体何の国際法違反に引っかかるのですか?
>援助したい方に援助し、
>そうでないほうに禁輸するのは自由でないのですか?

だから、はっきりいえば、
アメリカが蒋介石に資金と武器を提供して日本を武力攻撃させて
日支の戦闘を終わらせてくれないんですよ。
しかも石油禁輸です。
なぜ日本が制裁されなきゃいけないのですか?
石油だけじゃありません。あらゆる資源が禁輸され、
日支の戦争は続いている。
これ、どうなります?日本は滅びてしまうでしょ?
だから自衛なんです。

>>だから、あなたの言う「日本は良い事をしていた」というのは、
>>いったい何の事を言っているのですか?

>「中国大陸で自国の影響範囲、実効支配地を広げる事」が、
>当時日本世論からみると
>「国益にかなう良いこと」だったのでしょう。
>と言ったつもりでした。表現が未熟で申し訳ありません。

だから武力攻撃されるから反撃して停戦協定を結んでいたんです。
当時の支那は一つの国という感じじゃありませんでした。
軍閥割拠で独立自治を主張する勢力は各地に存在していました。
自国の権益を侵さない勢力を支持するのは当然の自衛なのです。

蒋介石があからさまに反共から反日に転じるのは西安事件以降です。

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とまと船

せきやさん、いつも丁寧にありがとうございます。

せきやさんは、当時の事情にかなりお詳しいと思います。
私は戦後に生まれましたが、私の世代が受けた学校教育や、
先に挙げました市販本は、当時の日本にも非があると思える内容でした。
しかし、それもまた多分に偏った見方だったかもしれません。

「歴史は勝者が作る」と言われることがありますとおり、
大戦の勝者たる連合国の色眼鏡も入っているのでしょう。

自分の知識の浅さと、勉強不足が分かり、とてもためになりました。
ご教示いただきありがとうございます。

せきやさんのように、「日本側の立場で考える」方は
今後の日本に絶対必要と思います。
そして、戦後のいわゆる「自虐史観」が見直される動きもあるようですし、
ニコニコに居られる若い方にも保守の方が多いと思っています。
せきやさんの憂慮とは逆に、私は、今後の日本は大丈夫と思っています。

今後も記事を書いていただけると嬉しいです。
お邪魔になるようなコメントはしないようにします。
あと、可能でしたらニコレポを公開していただけると、
せきやさんが記事をUpされたときに通知されるので、嬉しいです。

私は、せきやさん仰るとおり、自分自身のことを、
メチャクチャて平和ボケしたお花畑の左巻きだと思っています。
可能であれば、戦争やいがみ合いのない、
日本人も中国人も米国人も仲良く過ごせる世界に
なればいいなあと思っています。
もちろん、相手側が攻撃するなら、応戦するつもりではあります。

ただ、可能なら人の良心を信じたい、
理にかなっている方が勝利する世の中であると信じたい・・・ 
根っこは単純に、それであります。

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せきや

そう おっしゃられると、何か私のほうが申し訳ないです。

国内外で一番左の視点からでしか日本が見られていないので、
もはや一番右の視点というか「日本から見たら、こうなんだよ!」
という意見を見てもらう事は大切なことだと思います。

私は、当時の日本も発信不足ではなかったかという気はします。
日本は もっと世界に自国の主張をして
理解を得る努力の余地があったのではないかと思うのと、
それは、いま現在の日本政府にも言えることではないでしょうか。

「大東亜戦争の大きな流れ」以外は、
けっこう、いろいろと語られていますので、
この記事以外は投稿する予定はありません。

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大東亜戦争は日本が武力攻撃を受けて始まった戦争です。
http://bit.ly/1Gk8YQM
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