正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

ホーム 全記事一覧 << 戦数(戦争の必数) 「相手側にも良い人がいる」という主張について >>
上海共同租界を中心に説明

支那事変の本格的な始まりは1937.8.13.第二次上海事変です。

もともと上海は1840年・英清アヘン戦争の戦後条約により
イギリスが租借して得たもので、上海共同租界の行政機関である工部局の
外国人職員のほとんどはイギリス人で、工部局の最高意志決定機関の
参事会の参事は年一度の選挙で選出されてはいたものの、
事前に候補者は調整されていて、定員9名のうちイギリス人7名、
アメリカ人1名、ドイツ人1名の構成が続いていましたが、
第一次大戦でイギリスとドイツが戦うことになったため、
ドイツ人を参事会から排除し、代わりに日本人が参事に加わることとなり、
1915年に初めて日本人1人が参事会のメンバーに選出されて
日本が工部局行政に参加することになり、
翌1916年、工部局警察内に日本警察隊が創設され、
日本人が多く居住する虹口地区の治安維持強化のため、
日本の警視庁から30名の警察官が派遣され、少数ではありましたが
治安の悪さに悩まされていた日本人居留民の期待に応えました。
約20ヵ国の居留民が暮らすなか、各国の領事館内警察外の上海共同租界で、
どの国も警察官が活動できていたわけではなく、
日本は治安維持に努力していたほうだと思います。

上海共同租界の行政機関である工部局の決定によって、
欧米軍や日本軍が上海共同租界の各地区を警備分担していました。

確認ですが、上海国際共同租界は日本領ではありません。
上海国際共同租界のなかの比較的、日本人が多く住んでいた虹口地区が
通称「日本租界」と呼ばれていた日本人町(日本人居留区)で、
正式な日本租界ということではありませんでしたし、
虹口地区には日本人だけでなく欧米人や中国人も住んでいたのですが、
その日本人町だけが「蒋介石の地上軍」に武力攻撃を受け、
(蒋介石軍の一部はフランス租界にも侵入したため、
一時的にフランスの警官隊とも銃撃戦になった。)

「蒋介石軍の爆撃機」は日本人町だけでなく、
上海国際共同租界の、あちこちに無差別爆撃を行ないました。
「蒋介石軍の爆撃機」は日本人町を標的にしましたが、
正確に爆弾を落とすことができずに日本人町以外にも無差別爆撃する
結果になったのか、わざと日本人町以外も爆撃したのかは不明ですが、
蒋介石は「日本軍機が無差別爆撃をやった」と世界に宣伝しました。

しかし上海国際共同租界内には約20ヵ国の居留民が暮らしていて、
各国の領事館もありましたので、
蒋介石軍機が無差別爆撃をやっていたことは皆わかっていたはずです。

実質、上海共同租界を支配していたのはイギリスで、
そのイギリスには上海共同租界内の治安を維持し、
居留民の生命・財産を守る責務があったのですが、
上海共同租界内の日本人居留区が蒋介石軍に武力攻撃されたり、
上海共同租界の日本人居留区以外の地区も蒋介石軍に無差別爆撃され、
日本人に限らず、欧米人や中国人を含む約3000人もの居留民が犠牲になり、
租界内の多くの建物が破壊されているにも関わらず、
日本軍と一緒に蒋介石軍と戦うどころか、逆にイギリスやアメリカなどは
蒋介石側に資金・武器テロ支援をしました。

上海租界に大きなテロ被害を与えた蒋介石軍が去って行くのを、
だまって見ているだけでいいわけがありません。
相手を制圧して蒋介石を逮捕し、謝罪と賠償は当然の事、
再発防止に向けた協定線の位置の見直しや蒋介石軍の規模縮小や配置、
責任者らの処罰とともに、上海租界の警備についても
締約国内で話し合いを持つべきでした。

蒋介石は英米などからの強力な資金・武器支援が続けられているので、
日本から蒋介石への、たび重なる和平提案を蒋介石は拒否し続けました。
米英は、日本と中国(蒋介石)の戦争を終わらせてくれなかったのです。

英米が蒋介石に武器を輸送する援蒋ルート遮断のため、
日本は仏印と話し合い、条約を結んで合法的に日本軍は仏印に進駐しました。

「仏印が弱っているときに日本が話し合いを持ちかけた」
と批判する人がいますが、
日本が、うまく外交できなかったら無能だとバカにし、
うまく外交できたら、ひどいことをしたと非難する・・・
結局は何でも批判しておけばいいという批判です。

相手が弱っているとき、自国に有利な条約を結ぶというのは、
うまく外交をやったということであって、
相手が強い立場になるのを待ってから外交交渉を持ちかけるというのは、
それこそ無能だと批判されるのではないでしょうか。

仏印と話し合って、条約で進駐したのですから、
なんら批判されることではありません。

1937.8.13~第二次上海事変で
蒋介石から不法テロ攻撃を受けて日本は戦っているのに、
米英が援蒋するから蒋介石は日本からの和平交渉を拒否し続け、
テロ蒋介石側にテロ支援してるのが米英で、
その援蒋ルート遮断のために条約によって
合法的に日本軍は仏印に進駐しているわけで、
仏印進駐は国際法に則っての駐留なので批判される理由はありません。
権益地との距離が縮まっただけで経済制裁を発動して良いなんて、
どこの無法者の理屈なのでしょうか。
米英がテロ支援しなければ仏印進駐などしなくて良かったのです。

日本が仏印進駐すると英米蘭は日本に対して石油禁輸をしてきました。

英米による蒋介石への資金・武器支援や、
日本に対する経済制裁などは、英米にとって何の自衛でもありませんでした。

アメリカは国連か何かのつもりだったのか、
日本に中国から出て行くよう要求していましたが、
なぜ中国から出て行かなければならないのか、
なぜアメリカ一国の言うことを聞かなければならないのか、
被害側の日本にとっては、まったく意味不明なことでした。

日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるため、
先手を打って真珠湾攻撃しました。(日米戦争)

支那事変から日米戦争までを総称して大東亜戦争といいます。

蒋介石軍が1932年の上海停戦協定に違反して協定線内に侵入し、
上海共同租界の日本人町を武力攻撃してきたのです。
それに応戦した日本軍が、なぜ悪いのでしょう?
どうすれば良かったのでしょう?
相手は全部で10万人の軍隊です。
対して日本海軍陸戦隊は4000人くらいでした。
日本から応援の上海派遣軍を送ったことは間違っていたのでしょうか?

欧米軍は何もしてくれないどころか、
欧米は蒋介石のほうに資金・武器支援し、
日本に対しては経済制裁してきたのです。

日本人・日本軍だけが条約で支那にいたのではありません。
欧米人・欧米軍も条約で支那にいたのです。

上海共同租界には多くの外国人が居留していました。
日本軍だけでなく米英伊軍も上海共同租界を警備していたのです。

日本は最初からアジアにいます。建国からずっとです。
そこに白人列強が進入してきました。
独立自存を守るため必死にもがいたところのどこに非があるのでしょうか。

客観的に見れば、なおさら日本は東亜百年戦争の犠牲者であって
白人列強を擁護できる事実はありません。

日本やアジアが何か悪いことしたからアジアはほぼ植民地になり
日本を取り囲むように軍艦を配備したのでしょうか。

「白人も悪いが日本も悪い」とか言えば
中立的で客観視できていると勘違いしているに過ぎません。

悪いとか言うならば具体的に何が原因かを明記して、
その不当性の証明と代案の提示が必要です。

批判する行為(仏印駐留など)が違法で、自衛とは無関係という証明、
それが無くても窮しない根拠、課題(援蒋遮断するには)解決の代案が
提示されなければ客観視のための材料になりません。

戦争を避けるためなら英米の言うとおり全支撤退をすれば良かったんです。
英米に従属すればよかったんです。でもそれは何の解決にもなりません。

援蒋はおろか、白人列強がアジアに来なければ起こらなかった問題なのに、
必死になって「日本の非」を作り出すことが客観視なのでしょうか。
2015/03/26 09:00|年表リンク用資料
Copyright(C) 2006 正統史観年表 All Rights Reserved.
Powered by FC2ブログ. template designed by 遥かなるわらしべ長者への挑戦.