正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1533年、スペインがインカ帝国を滅亡させる。

南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心に
ケチュア族が作った国。
最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、
現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、
コロンビア南部にまで広がっていた。

現在、アンデスの町々の街頭で子供をあやしながら手芸品を売ったり、
物乞いをしている、山高帽をかぶった小柄なインディオの女性を見かけるが、
彼女らが生き残ったインディオの子孫である。

わずかの手兵でアステカ帝国を滅亡させ、
莫大な黄金を得たコルテスのニュースは、
カリブ海を探検中のスペイン人のフランシスコ・ピサロにも届いた。

1531年、アンデス山中にたくさんの黄金を持つ
インカ帝国があることを聞きつけたピサロは、
180人の手兵と27頭の馬を連れてインカ帝国に向かった。

エクアドルからボリビアまで広がるインカ帝国は、
建国してまだ100年足らずだったが、道路、貯蔵庫、農業台地、
鉱山都市と驚くべき偉業が遂げられていた。

ピサロはインカ帝国の王を家臣と共に広場へおびき出した。
ピサロの従軍司祭の神父は通訳を通してキリスト教への改宗を要求した。
それを王が拒否すると、司祭はピサロに王を攻撃するよう促した。
司祭はまた、ピサロとその兵たちに、
これからの流血の事態に対するいかなる責めからも、
神の名において免ぜられると告げた。

ピサロの合図で歩兵に支援された騎乗兵が隠れ場所から現れ、
非武装のインディオたちに襲いかかり、
多数の貴族を含む数千人をあっという間に殺害してしまった。
王は人質にされ、ピサロは帝国の支配権を握った。

インディオたちの、相手を疑わない寛容な善意の
対応を裏切っただまし討ちだった。
このような白人の残虐非道な手は、
5世紀後の大東亜戦争まで一貫して使われる常套手段である。

捕らえられたインカ帝国の王は、白人が欲しがっているのが
黄金であるのを知っていたので、
釈放してくれるならば部屋一杯の黄金を差し出すと申し出た。
その大量の黄金が出された途端に、
ピサロは約束を破って王を裁判にかけ、ロープで絞め殺した。

ピサロは王の腹違いの弟にインカの王位を継がせた。
その最後のインカ王トゥパク・アマルも結局は捕らえられ、
中央広場で斬首された。

1996年末の、ペルーの日本大使館公邸人質事件で、
ゲリラ集団が名乗ったのもトゥパク・アマルであった。

インカ帝国から得た富を主因としたスペイン黄金時代、
文学や宮廷美術の全盛期は1550年から1680年までの長きに及ぶと考えられる。
2010/04/25 01:00|年表リンク用資料
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