正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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杉原千畝氏は日本政府の指示にしたがって通過ヴィザを発給した。

日本政府は、行先(最終目的地)の入国許可手続を完了した
ユダヤ人避難民には日本通過ヴィザを発給していました。
杉原千畝氏は政府・外務省の指示にしたがい、
領事館・副領事の業務として通過ヴィザを発給したにすぎません。

杉原千畝氏は懲戒免職にならず、
戦後まで外務省職員として懲罰無しで勤務を続けています。
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杉原千畝氏の略歴
●1900年、岐阜県加茂郡八百津町に生まれる
●1919年、早稲田大学高等師範部英語科予科終了 英語科本科入学
外務省留学生試験合格 外務省入省
外務省ロシア語留学生として満洲ハルビンへ
(中略)
●1937年、二等通訳官として在フィンランド公使館勤務
●1939年、副領事(領事代理)として在リトアニア領事館勤務
●1940年、日本経由で第三国に渡航目的のユダヤ人難民に通過査証発給
在プラハ(プラーグ)総領事館勤務(総領事代理)
●1941年、在ケーニヒスベルク総領事館勤務(総領事代理)
一等通訳官として在ルーマニア公使館勤務
●1943年、三等書記官として在ルーマニア公使館勤務
●1947年、帰国 外務省退職

戦後、杉原千畝氏が外務省を退職した理由は、
ユダヤ人避難民に通過ヴィザを発給したからではなく、
大東亜戦争の敗戦によって日本が占領下で外交権を失い、
外交官の仕事はなくなり、外務省職員が大量にリストラされたからです。

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当時の日本政府・外務省(松岡洋右外相)は、アメリカ大陸諸国の
入国許可手続を完了しているユダヤ人避難民については
日本通過ヴィザの発給を許可していました。
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1940年7月23日、松岡洋右外務大臣から来栖三郎駐独大使への訓令
「猶太(ユダヤ)避難民二対スル通過査証取扱方注意ノ件」
最近欧州方面ヨリ本邦経由米国大陸諸国渡航ノ猶太避難民多数アリ
現ニ日本郵船伯林支店ニテ之等避難民ノ本邦米国間ノ輸送ヲ
引受ケタル者ノミニテモ六百名ニ上リ(中略)
之等ノ者ニ対シテハ行先国ノ入国許可手続ヲ完了セシ者ニ非サレハ
通過査証ヲ輿ヘサル様取扱方御注意アリタシ
―――↓現代語訳↓―――――――
最近、ヨーロッパから日本経由でアメリカ大陸へ渡航するユダヤ人が
多数おり、日本郵船ベルリン支店が引き受けたユダヤ人避難民だけでも
600名にも上ったが、これら避難民に対する日本通過ヴィザは、
行先となるアメリカ大陸諸国の入国許可手続を完了していない者については
発給しないように取扱いに注意しろ
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行先(最終目的地)の入国許可手続を完了していない者には
通過ヴィザを発給するなという訓令は当然のことです。

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松岡洋右外務大臣からのユダヤ人難民に係る訓令(通達)に対して、
在リトアニア領事館の副領事だった杉原千畝は
「日本政府が条件とした手続き未了の避難民については
ウラジオストクで乗船を拒否してください」という意見を具申していました。
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当国避難民中ニハ近クニ中南米代表ナキト当館ノ引揚切迫ヲ見越シ
先ツ現在唯一ノ通過国タル我査証方願出ル者アリ而モ我査証ハ蘇側ニ於テモ
米国方面出国手続上ノ絶対条件トナシ居ル等事情斟酌ニ値スルモノアルニ鑑ミ
確実ナル紹介アル者ニ限リ浦塩乗船迄ニ行先国上陸許可取付方本邦以遠ノ
乗船券予約方並ニ携帯金ニ付テハ極端ナル為替管理ノ為在外資金ヲ本邦へ
転送方手配スル場合敦賀ニ予報方手配方夫々必要ノ次第ヲ承知スル旨
申告セシメタル上右実行ヲ条件トシテ査証シ居ルニ付右手続未了ノモノニ
関シテハ至急浦塩ニ於テ乗船拒絶方御取計アリタシ
―――↓現代語訳↓―――――――
リトアニアの避難民の中には、近辺に中南米諸国の大使館や領事館が
ないとし、日本の領事館もリトアニアからの引き揚げが切迫していることを
見越して唯一通過する日本のヴィザを願い出る者があり、
しかもソ連としても米国方面への出国手続きを絶対条件としているなどの
事情斟酌を考慮し、確実な身元紹介がある者に限って、
ウラジオストクでの乗船までに行先国の上陸許可を取り付け、
しかも日本以遠の乗船券を予約し、所持金については極端な為替管理のため、
海外資金を日本へ送金手配する場合、敦賀にも予め手配する必要があることを
承知すると申告して実行することを条件として通過ヴィザを発給しており、
この手続を完了していない者については
ウラジオストクにて日本行きの乗船を拒絶するように取り計らって頂きたい。

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上記のように、当時の日本政府・外務省(松岡洋右外相)は、
アメリカ大陸諸国の入国許可手続を完了しているユダヤ人避難民については、
日本通過ヴィザの発給を許可していました。
リトアニア領事館の副領事(領事代理)だった杉原千畝氏は、
日本政府・外務省(松岡洋右外相)の訓令に従って
ユダヤ人避難民に通過ヴィザを大量発給し続けたのです。

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ラビ・マーヴィン トケイヤー著
『ユダヤ製国家日本―日本・ユダヤ封印の近現代史』
「我々ユダヤ人がもっとも感謝すべき人物は東條英機」
◆西洋諸国ではなく日本がユダヤ難民に扉を開いてくれた
関東軍司令部は昭和13年(1938年)1月に、
「現下二於ケル対猶太民族施策要領」を定めていた。
これは、東條参謀長が決裁したものであった。
要領は日本がユダヤ人を差別しないことについて、
「独逸其ノ他ノ列国二対シテハ我民族協和、八紘一宇ノ精神並二防共ノ
大義二遵由スルヲ諒解セシメ誤解ナカラム」(第4項)と、述べていた。
当時、日本とドイツは、防共協定を結んでいた。
東條と、樋口と、安江が2万人以上のユダヤ人難民を窮状から救ったのは、
『日本のシンドラー』として有名になった、
杉原千畝リトアニア駐在領事代理が首都のカウナスで
昭和15年(1940年)7月から9月にかけて、
『生命のビザ』を発行して、6000人以上のユダヤ人難民を救った、
その2年以上も前のことである。
3人の日本軍将校と、杉原が、ユダヤ人を救った時には、
アメリカや、イギリスをはじめとする諸国が、
ユダヤ人難民に対して扉を閉じていた。
もし、このころにこれらの西洋諸国がユダヤ人難民を
受け入れていたとしたら、その後、数百万人のユダヤ人が、ナチスによって
虐殺される運命から逃れることができたことだろう。
ところが、日本は扉を開いたのだった。
◆ドイツの抗議を一蹴した東條
オトポールに集結したユダヤ人難民の大多数が、ドイツ旅券を持っていた。
旅券には赤い字で大きく、ユダヤ人の『J』を示すゴム印が、押されていた。
ドイツ政府はユダヤ人は子供にいたるまで、衣服にユダヤの象徴である、
黄色の『ダビデの星』の縫い取りをつけることを、義務づけていた。
難民たちはドイツから出国した時に、この屈辱的な縫い取りを
いっせいにはぎ取って、捨てていた。
すると、ドイツ外務省が日本政府に対して、
大量のユダヤ人難民を満州国へ入れたことに対して、強硬な抗議を行った。
この抗議は、東京から新京の関東軍司令部へ、すぐに伝えられた。
すると、東條参謀長は難民を受け入れたのは、
「当然なる人道上いつしゆうの配慮によって行ったものだ」
として、一蹴した。
この時、東條参謀長が樋口に許可を与えなかったとすれば、
ユダヤ人難民が救われることはなかった。
樋口は有能な軍人であり、その後、東京の参謀本部で部長などを歴任し、
中将に昇進した。太平洋戦争の末期には、
千島列島と北海道の防衡を担当する北部軍司令官となっていた。
樋口がこのように軍人として順調に出世したのは、
規則を忠実に守ったからだった。樋口がオトポールに殺到したユダヤ人難民を
入境させるのに当たって、参謀長の許可を仰がないはずがなかった。
◆明治以来の日本も、西洋人によるおぞましい人種差別の対象
日本は明治に西洋の列強の威嚇のもとに、開国と近代化を強いられて以来、
列強によって屈辱的な不平等条約を結ばされていた。
幕末から海外を旅した日本人は、西洋の帝国主義諸国が同じアジアの民を、
家畜同様に扱っていたのをみて、深く憤るとともに、
人種平等の世界を創ることを、強く願った。
日本が最後の不平等条約を改正することができたのは、
日本が日露戦争に勝った後のことだった。
日本人も、傲る西洋人によるおぞましい人種差別の対象となっていた。
日本が日露戦争に勝つと、その直後からアメリカのカリフォルニア州において
日本人移民排斥運動が起こった。このことは、日本国民をいたく憤慨させた。
サンフランシスコ市は日露戦争が終わった翌年に、
日本人児童の小学校就学を禁じて、全市の小学校から追放した。
全市で2万人以上の小学生がいたなかで、
日本人児童は僅か100人にみたなかった。
東條も、樋口も、日本人だったのだ。
当時の日本人は、誰もが西洋の列強が公然ともと人種差別を行っていたのを、
正義に悖るとみなしていた。
東條や、樋口はこのような国民精神にもとづいて、
ユダヤ人難民を救ったのだった。
一日本人とユダヤ人は、正義をことさらに愛する民である。
ここにも両民族のあいだに、もう一つの共通点がある。
◆日本は人種平等の原則に基づいてユダヤ人を応援し続けてくれた!
日本は人種平等の原則に基づいて、ユダヤ民族を一貫して応援してきた。
この記録は、日本の国の勲章である。先の"バルフォア宣言"が発せられると、
ベルサイユ講和会議で日本代表団の一員として加わっていた、
珍田捨巳駐英大使が、「日本政府はユダヤ人が自分の国家をパレスチナに
建設しようとするシオニストの願望を支持し、
その要求が実現されることを望む」という書簡を発表している。

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A級戦犯とユダヤ人
◆東条英機
満州に逃げてきたユダヤ人に穏健な措置を取るように指示し、
ドイツからの抗議を一蹴。
◆松岡洋石
凍死寸前のユダヤ人難民のために列車を手配。
神戸に来たユダヤ人のために便宜を計らう。
◆荒木貞夫
文部大臣の時ドイツから在日ユダヤ人教師の追放を要求されるも
民族差別には 同意できないと拒否。
◆東郷重徳
亡命ユダヤ人医師の婚約者を救出。
恩義を感じたその医師は、東郷の主治医となり、日本でタヒ去。
◆広田弘毅
命のビザを発給した杉原千畝の尊敬する人物。
亡命ユダヤ人音楽家の身元保証人となる。
◆板垣征四郎
五相会議においてユダヤ人も公平に扱うべきと主張し、
その結果その主張が日本の国策となった。

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六千人の命を救った外交官 杉原千畝 http://bit.ly/1PNJ1wN
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-131.html
日本海軍が護る上海は1万8千人のユダヤ難民の「楽園」だった http://bit.ly/1lm3oEQ
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-540.html

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杉原千畝氏は日本政府の指示にしたがって通過ヴィザを発給した http://bit.ly/1m5Uv22

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2008/07/21 09:00|年表リンク用資料
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