正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1876年(明治9年)、日朝修好条規(江華島条約)

ロシアの侵略を防ぐため、日本は朝鮮に一刻も早く近代国家になって
欲しかったが、日本の要望に朝鮮は拒否し続けた。

朝鮮との外交権を対馬の宗氏から政府に移した日本は、
1870年(明治3年)、「皇」「勅」「朝廷」を使わないで文書を送った。
それでも徳川時代と違ったやり方は嫌だ、
日本政府から直接でなく対馬の宗氏を使ってくれ、
と朝鮮は相変わらず拒絶を繰り返した。

この翌年に朝鮮の宗主国の清国とは修好条約を結んでいることを考えると、
清国よりも朝鮮の方が頭が堅かった。

日本から行った外交使節はむなしく帰る形になった。
しかも、この後朝鮮では理由もないのに反日運動が日に日に高まって、
江戸時代から釜山にあった日本の外交事務所に薪や食糧を供給しなくなり、
その門前には侮辱のプラカードのようなものを立てたりした。

さすがに日本も腹を立てた。
当時の日本政府の要人の多くは岩倉使節団で世界を回っていて、
国内にいた一番の重要人物は西郷隆盛で、
彼は朝鮮への軍の派遣に反対した。
しかし、自分が朝鮮に行き、もし殺されたら、そのときは軍を出してくれ、
と主張した。
これが「征韓論」といわれるものだが、反日・自虐史観に洗脳された人の
説明には変なことがいろいろと書かれている。

1874年(明治7年)、日本は外務省の役人を朝鮮に派遣し、
「新しい手紙を送ったら朝鮮は受け取る」ということで話をまとめた。
しかし、翌8年(1875)、日本の使節が朝鮮に行き返書をもらおうとすると、
朝鮮側は拒否した。
これは、排外主義の大院君が明治7年には勢いがなかったのに、
8年になって盛り返したため、一転して拒絶政策になったためである。
朝鮮が臆面もなく前言を翻すのは今も昔も変わらない。

こうしているうちに事件が起きた。
1875年(明治8年)6月30日、日本の軍艦・雲揚号は釜山の草梁を出港して
長崎に帰港。9月に入り、海軍大輔・川村純義から、
「対馬の海湾を測量し、その後に朝鮮東南西海岸から清国牛荘にかけて
航海して航路を調査研究し、帰路に琉球諸島を測量するように」
との命令を受け、まず、対馬の海湾の測量を行なった。
次に朝鮮東南西海岸から清国牛荘に向かう途中で、
淡水が足りないことに気づき、その補給のため江華島に向かった。
江華島の沖合いに停泊し、飲料水を求めてボートで陸地に近づいたとき、
突如、砲台から攻撃を受けた。

一方的に砲撃されたから、雲揚号の艦長は即座に反撃を加え、
陸戦隊を砲台に送り込んで武器を没収して、その後、長崎へ戻った。
これを「江華島事件」という。

今までは白人諸国の船を追い返したり、船員を殺したりして朝鮮は白人よりも
強いと思っていたが、今回の件で日本に簡単にやられて態度が変わった。
それまで日本の要望を拒否し続けていた朝鮮はこの事件をきっかけに、
1876年(明治9年)に日朝修好条規(江華島条約)を結んだ。

これは近代になって朝鮮が外国と結んだ最初の条約である。
明治政府が朝鮮と国交を結ぶまで9年もかかった。
(清国とは1年もかかっていない)

この条約は朝鮮の清国との宗属関係を否定、
つまり独立国であることを謳ったという点で、
朝鮮にとっては画期的なものだった。

条約の第一条では「朝鮮は独立の国であり、日本と平等な権利を有する」と
謳われている。
つまり、平等であることをわざわざ書き、
朝鮮は自主の国といって独立を認めた。
これは朝鮮の地位を引き上げたのである。
朝鮮に対してこのように言ってあげたのは、日本が最初の国だった。
この条約のもっとも重要なこれらの点を反日・自虐教科書は無視している。

日朝通商条規は、朝鮮が始めて自分で結んだ国際条約だった。
事実、それに続くようにして、イギリス、ドイツも朝鮮と条約を結んだ。

江華島条約を機に、鎖国攘夷政策を取っていた朝鮮政府内で
開国派が影響力を持つようになった。
日朝双方にとって喜ぶべき状況が生まれたのだが、
それもわずか6年足らずのことだった。
残念なことに、壬午政変を機に、
朝鮮は再び清国の影響を強く受けることになった。

反日・自虐史観においては、この条約は釜山をはじめとした三港の開港や
関税免除を定めた不平等条約とだけ説明して、
日本が列強に突きつけられたような不平等条約を、
弱い朝鮮に強いたと匂わせている。

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江華島での日朝両大臣の会談記録より、
砲撃事件についての朝鮮国大臣・申憲の発言部分

『黒田弁理大臣使鮮始末 正本/2』(旧漢字→新漢字、句読点、()は筆者)

P16より

申・大臣
「江華島は京城接近の地故に守衛を厳にす。
貴国徽章見本は既に我政府へ御差出し相成しなれども、
未だ地方へは達し置かず。
尤、其船は黄色の旗を立たれば全く別個の船と認め、
防守の為砲声を発せしなり。」

申・大臣
「地方よりは黄旗なりし由を届け出たり。誤り認めたるか。
尤、貴国旗章見本は未だ江華へ達知せず。
且、其際異様の船舶近海へ来往するの説あり。
故に貴国舩なるを知らず砲声を発したるなり。
今般廣津(廣津弘信副官)よりの報にて初て貴国舩なりしを知れり。」

申・大臣
「貴国旗見本我朝に達したるは確乎たりと雖ども、
全国へ公布せざるは両国交際の事未だ十分ならざる処あれば
外務卿の書契を収むるの事に至て後公布すべしと思いしなり。
今地方に於ては別に公布を聞かず。忽ち黄色の旗を見、発砲せしならん。
然らざれば平常商船等の海上風波の難に罹るの事あれば、
直に之を救恤するを為す。況や貴国軍艦に謂れなく無礼を加う可けんや。」

申・大臣
「当時其船若し我国に留り、
果して貴国船なるを知らば処分の道もあるべきに、
其船は永宗城に至り火を放ち兵器を奪い直ちに帰り去りしにより、
全く外夷の所為なると思いしなり。
自後此等の事出来せざる様注意いたすべし。」

P27より

申・大臣
「貴国船なるを知らずして発炮す。故に守兵罪なし。」

申・大臣
「既に貴国船なりしを知れば、我朝廷宜しからざる事を為せしと思うなり。」

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上記資料の要約
【1】朝鮮政府は日本から国旗の見本を受け取っていた。
【2】その日本の国旗の見本は、まだ地方に充分に通達が済んでいなかった。
【3】公布を聞かずに発砲する地方の者もいる。
【4】日本の船だと知らずに砲撃した。
【5】知らなかったのだから守兵に罪はない。
【6】知らずに砲撃したのに反撃された。以後は反撃しないでほしい。

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「日朝修好条規(江華島条約)」は韓国にとって不平等条約だったか?
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2010/02/17 06:00|年表リンク用資料
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