正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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満州事変3記事 http://bit.ly/1RbJeIk
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-724.html

◆満州事変の大まかな説明 http://bit.ly/1pWhKxy
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-723.html

◆1931年~1933年・満州事変 http://bit.ly/1pElzHU
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-725.html

◆満州事変についての大東亜戦争後の証言 http://bit.ly/1QMKjZG
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-710.html

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『満州事変についての大東亜戦争後の証言』

満州事変の発端となった1931年9月18日の柳条湖事件は、
大東亜戦争の戦中戦前までは「犯人は支那軍」が通説だった。
爆音を聞いた守備兵が北大営近くで発砲されて交戦になった。
その後リットンなどが調査したが結論は出ないまま、
戦後の「検証しようのない証言」で、
なぜか通説が引っ繰り返されて常態化している状況。
仮に前通説に確たる証拠がなくとも、
それを引っ繰り返せる「確たる証拠がある論説」でない限り、
前通説は引っ繰り返されてはいないのである。

東京裁判でも否定されておらず、支那側は反論しなかった。

大東亜戦争後、満州事変の関係者、
本庄繁氏(1945年自決)、
板垣征四郎氏(1948年A級戦犯で絞首刑)、
土肥原賢二氏(1948年A級戦犯で絞首刑)、
石原莞爾氏(1949年病死)
などの関東軍指導者がほとんど逝去されたあと、
下記の秦郁彦氏の本2冊が出版されたことや、
高木清寿氏の本の内容が誤解されて広まったことが大きく影響し、
検証しようのない証言によって日本(関東軍)犯行説が通説になってしまった。

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『月刊誌 知性 別冊 秘められた昭和史「満州事変はこうして計画された」』
(昭和31年1956年12月号 河出書房)

秦郁彦氏が23歳の東大生だったときに花谷 正氏に取材をし、
その花谷 正氏の証言を秦郁彦氏が書いた記事が下記の雑誌に掲載されたが、
当時、実際の執筆者であった秦郁彦氏の名前は伏せられて掲載された。

※花谷 正氏は当時、少佐・関東軍司令部付(奉天特務機関補佐官)

『月刊誌 知性 別冊 秘められた昭和史「満州事変はこうして計画された」』
(昭和31年1956年12月号 河出書房)の冒頭部分を抜粋。

当時関東軍参謀であった花谷正が、満洲事変は、関東軍の謀略に
基づくものであったことを、証言している史料。当時の関東軍関係者が、
満洲事変は関東軍の謀略に基づくもであったことを認めた唯一の証言。
本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾は、満洲事変は「自衛」であったとして
関東軍による謀略を否定しており、花谷以外の関東軍関係者で、
満洲事変は関東軍の謀略に基づくものであったことを認めた者はいない。
(以下略)

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『昭和史の謎を追う(上)P70~74 秦郁彦著 1999年 文春文庫』より抜粋。
・・・
私が昭和の戦争史に重要な役割を果した旧軍人からの
ヒアリング作業を始めたのは、
東大教養学部2年在学中の1953年から翌年にかけてであった。
・・・
すでに関係者の多くが他界していて、会って話が聞けたのは
花谷正、島本正一の両氏であったが、島本は多くを語らず、
東京・代々木に住んでいた花谷(事件当時の奉天特務機関補佐官)に
的をしぼった。
・・・
★私はこの事件が関東軍の陰謀であることを確信していたので、
要は計画と実行の細部をいかに聞き出すかであった。
・・・
1956年秋、河出書房の月刊誌『知性』が別冊の「秘められた昭和史」
を企画したとき、私は花谷談を整理してまとめ、
補充ヒアリングと校閲を受けたのち、
★花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」を発表した。
柳条湖事件の核心部分が活字で公表されたのは、
この花谷手記が最初で、当時かなりの反響が出たと記憶する。
・・・
花谷証言がほぼ正確であったことは
1958年に三谷清、1962年に川島正からのヒアリング
によって確認され、その成果は、
1963年に刊行された日本国際政治学会編『太平洋戦争への道』
(全8巻、朝日新聞社)第1巻に紹介された。
・・・
【証言その1 見津(みつ)実上等兵(東京都在住)】
9月18日の夕方、川島中隊長の官舎へ呼ばれ、行ってみると、
中隊長夫妻、河本中尉、それに見知らぬ大尉が応接間にいて
「今田大尉だ」と紹介された。
今田が「そのトランクを開けてみよ」と言った。
小型の布製トランクの中に中国製らしい爆薬が約20個入っていた。
川島から「これから中隊は演習へ行くが、
お前は今田大尉と同行せよ。誰とも話すな」と厳命され、
ワインで乾杯したのでタダゴトではないと予感した。
河本中尉が何人かをつれて先発、薄暗くなって
今田と私は北大営とレールの中間点に伏せの形で潜伏していた。
30分後にバーンと爆発音が3回聞こえ、火柱が西南方に見えた。
すぐ中隊主力が到着し、北大営に攻撃を開始した。
戦闘が始まって少しのち兵営内へ入ると、
今田と川島が「もう大丈夫だよ」と話しあっていた。
そのようすから日本側の謀略だな、と見当をつけた。
その後、特務機関の2階に約1カ月軟禁されたのち、中隊へ帰った。

【証言その2 今野(こんの)褜五郎(いなごろう)上等兵(宮城県在住)】
私はラッパ卒兼伝令として斎藤金市1等兵(故人)とともに、
9月18日夜河本中尉と行動をともにした。
線路の西側を今野、東側を斎藤、河本の順で南下して行った。
問題の地点まで来ると、河本が我々に第14列車(急行)を
今からひっくりかえすと告げ、列車が近づくのを確かめたのち、
1人で図嚢(ずのう)から取り出した爆薬をレールに装置した。
その間我々2人は5メートルぐらい離れ、
反対側に向い警戒するよう命じられたが、
「伏せろ」と河本が叫んだので伏せた。
ところが爆発の直後に列車は無事に通過してしまった。
あの地点はカーブの外側なので、車輪が浮いたのではあるまいか。
河本から「中国軍が鉄道を爆破したと報告せよ」と命じられ、
私は柳条湖分遣隊へ、斎藤は川島中隊長へ伝令に走った。

【証言その3 松尾正二奉天保線区長(東京都在住)】
9月18日朝に、関東軍から有事に備え、
いつでもモーターカーが出せるように準備しておけ、と指示が来ていた。
夜は自宅に帰っていたが、線路方(がた)から
事件が起きたと電話があり出勤、
まず爆破現場を検分して被害の状況を調べる必要があるので、
三宅保線助役(故人)らがモーターカーで出発したが、軍が近づけさせない。
翌朝、切断されたレールを見た。
断面に重いもので叩かれた痕(あと)があり、
列車がこの部分を通過した時に生じた傷、と判断した。
切れた長さは18~20センチで、最弱点である外側カーブの継ぎ目だが、
よく脱線しなかったと話しあった。修理作業は一時間もかからなかった。

【証言その4 前田喬奉天駅助役】
問題の上り第14列車は予定どおり奉天駅についた。
この列車に満鉄の木村理事が乗って大連へ向うので、
当直の私がプラットホームへ見送りに出ているところへ、
軍から電話が入り鉄道爆破を伝えられた。
・・・
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『東亜の父 石原莞爾 高木清寿著 昭和29年(1954年)出版 錦文書院』
のなかの内容が誤解され、
石原莞爾氏が「自分が戦犯である」と語ったとする伝説が始まった。

『東亜の父 石原莞爾 高木清寿著 昭和29年(1954年)出版 錦文書院』
より抜粋。

「裁判の冒頭、尋問の前に何かいうことはないか」
『ある。満州事変の中心はすべて石原である。事変終末は錦州爆撃である。
この爆撃は石原の命令で行ったもので、責任は石原にある。
しかるに石原が戦犯とされぬことは腑に落ちない。
だから話は少々長くなるかも知れない。』と切り出した。
ところが裁判長も検事も非常に狼狽して、裁判長は、
『ジェネラルは戦犯として取り調べるのではない。証人として調べるのだ。』
といい、検事は『証人はそんなことをいってはいけない。
証人はこちらで尋ねることを、然り、然らずだけで答えるだけでよい』
と言ってあわてて石原の発言を封じた。さては逃げたなと直感した。」

↓↓↓

これが『秘録 石原莞爾 横山臣平著 昭和46年(1971年)発行』のなかでは、
「満州事変の中心はすべて自分である。
事変終末の錦繍爆撃にしても、軍の満州建国立案者にしても皆自分である。
それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」
となっている。

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さらに、2013年6月22日の読売新聞の特集記事
「昭和時代第3部戦前・戦中期1926~44)」のなかで、
この『秘録 石原莞爾 横山臣平著 昭和46年(1971年)発行』をもとに
石原莞爾氏の「人物抄」で、
『戦後、東京裁判の酒田臨時法廷に証人出廷し、
「満州事変の中心はすべて自分である。
戦犯として連行しないのは腑に落ちない」と裁判を皮肉った』
と紹介された。

しかし、東京裁判の酒田臨時法廷の詳細な記録
『石原莞爾選集 第7巻 酒田法廷記録』のなかに、そのような証言はない。

石原莞爾氏が軍事法廷に提出した際の「宣誓供述書」では事件の発生を
「暴戻なる支那軍隊は満鉄線を破壊し、守備兵を襲い、
我が守備隊と衝突せり」と証言している。

石原莞爾氏の証言
◆柳条湖における鉄道爆破は支那軍隊の仕業。
◆満州事変は武力による解決は希望しておらず、
やむを得ず自衛的に武力発動したが、
それも奉天占領までで、それ以上の占領計画はなかった。
◆錦州爆撃は偵察飛行していたら応射を受けたから爆弾を落とした。
◆満州国建国は東北新政治革命の所産であり、
我が国の軍事行動は、その契機となっただけ。

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満洲事変
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満州地域における日本人や日本関係施設の被害
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2016/01/10 06:00|年表リンク用資料
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