正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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援蒋ルート(えんしょうルート) http://bit.ly/20RqyW8

援蒋ルートとは、支那事変(日中戦争)において、
アメリカ、イギリス、ソ連が中国に軍事物資を支援した輸送路のことで、
「中国の蒋介石を援助するルート」を略して「援蒋ルート」と呼ぶ。

中国は、米英ソなどの援助を受けることで
劣勢ながらも徹底抗戦を続けたため、
日本は支那事変勃発から日米戦争終戦までの長期間にわたり、
100万以上の兵力を満州国を含む中国大陸に貼り付けて置かねばならず、
日本の国力は疲弊した。

4つの援蒋ルートがあった。

◆香港ルート
当時イギリスが植民地支配していた香港に陸揚げされた物資を
鉄道や珠江の水運を利用して、中国大陸内陸部に運ぶ輸送路。
1938年10月、日本軍が広州を占領して遮断。

◆仏印ルート
当時フランスの植民地であったフランス領インドシナ西部の
ハイフォンに陸揚げされた物資を昆明まで鉄道で輸送するルート。
1940年、フランスがドイツに敗北してヴィシー政権成立後、
日本軍が条約により北部仏印進駐して遮断。

◆ソ連ルート
他のルートと同じく重要なものであったが、
1941年、独ソ戦が始まるとソ連軍はドイツとの戦いに
多くの物資を振り分けたため中国を支援する余裕はなくなったことと、
このルートを通じた援助を続けることで、同年、日ソ中立条約を結んだ
日本を刺激することを恐れたためソ連は物資の供給をやめた。

◆ビルマルート
新旧2つの陸路と1つの空路があり、
当時イギリスが植民地支配していたビルマ(現在のミャンマー)の
ラングーン(現在のヤンゴン)に陸揚げした物資を
ラシオ(シャン州北部の町)までイギリスが所有、運営していた鉄道で運び、
そこからトラックで雲南省昆明まで運ぶ輸送路(ビルマ公路:en:Burma Road)
が最初の陸路で、日本軍が全ビルマからイギリス軍を放逐し
平定した1942年に遮断された後、イギリスとアメリカは
インド東部からヒマラヤ山脈を越えての空路(ハンプ:en:The Hump)
に切り替え支援を続けたが、空輸には限りがある上、
空輸中の事故も多発しため、アメリカが中心となって
新しいビルマルートの建設を急ぎ、イギリス領インド帝国の
アッサム州レドから昆明まで至る新自動車道路(レド公路:en:Ledo Road)
が北ビルマの日本軍の撤退後の1945年1月に開通。

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南部仏印進駐の効果について

『ビルマ戦線と崩壊と重慶・米英・印度・濠洲 (上巻)』
大本営陸軍報道部長 陸軍大佐 谷萩那華雄著 より
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「ビルマ路喪失」
次に経済関係について述べれば、結局ビルマ公路喪失が
重慶に致命的打撃を与えたという問題になる。
昭和15年に米英その他援蒋諸国から重慶に入った物資の割合を見れば、
仏印ルートが46%、ビルマ公路から36%、
南支沿岸地方から17%、西北ルートから1%であった。
ところが、昨年の南部仏印進駐が決行されるや
仏印ルートの遮断でこの割合が変り、ビルマ公路77%、
南支沿岸、香港その他密輸ルートによるもの13%
西北ルートから10%になったのである。

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援蒋ルート(えんしょうルート) http://bit.ly/26ciMoZ
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2015/03/17 06:00|年表リンク用資料
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