●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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ルーズベルトの開戦責任 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 『ルーズベルトの開戦責任 - 大統領が最も恐れた男の証言』 ハミルトン・フィッシュ著(翻訳:渡辺惣樹) ■訳者まえがき 日米戦争の原因を冷静に遡ればヨーロッパで始まった戦争(1939年9月) に起因していることは間違いない。 そのヨーロッパの戦いの原因はドイツとポーランドの、 東プロシアの港町ダンツィヒの帰属をめぐる争いだった。 ベルサイユ条約(1919年)によって独立したポーランドの領土として 認められた港町ダンツィヒは、 もともとドイツの前身であるプロシア領であった。 そこに暮らす90%の住民はドイツ系であった。 ヒトラーはポーランドに対してダンツィヒの返還を要求した。 そしてドイツ領から飛び地になっているこの港町への アクセス権(ポーランド回廊問題)を要求した。 ウッドロー・ウィルソン米大統領が第一次世界大戦後の パリ講和会議で主張した民族自決原則からすれば、 ヒトラーの要求に理があると考える政治家は イギリスにもアメリカにも多かった。 機甲化されたドイツ陸軍とその航空戦力を考えたら、 ポーランドはドイツとの外交的妥協を求めたほうが賢明である。 多くの政治家はそう考えた。 本書の著者であり、当時下院議員をつとめていた ハミルトン・フィッシユもそうした政治家の一人であった。 ドイツにとって、ダンツィヒ帰属問題の解決は、過重な賠償をはじめ、 敗戦国ドイツに対するべルサイユ条約の 不正義からの回復運動の完成を意味した。 これによってドイツ国民の恨みは解消できるはずであった。 フィッシュらは、ヒトラーのナチス政権は ダンツィヒ帰属問題を終結させ次第、 その矛先をソビエトロシアに向けると考えていた。 二つの全体主義国家は必ずや壮絶な戦いを始めるだろうとみていたのである。 ヒトラーは、何度もダンツィヒ問題の外交的解決を図ろうとしていたし、 同時に、英仏とは戦いたくないというメッセージを発していた。 ドイツは第一次世界大戦ではイギリスの海上封鎖に苦しんだ。 食料不足で多くの国民が餓死し、 それが社会主義者の跋扈の呼び水となり内部から崩壊した。 ヒトラーが、第一次大戦の苦しみの記憶から、 食料も石油資源も豊富な東(ウクライナ方面)を目指すだろうと 多くの政治家は予想していた。 だからこそ、彼らの外交常識からすれば、ポーランドはドイツと妥協し、 場合によってはドイツに協力して共に東進するオプションもあるはずだった。 ソビエトはポーランドにとって十分に危険な国であった。 しかし、ポーランドはなぜか意固地にヒトラーの要求を拒否した。 ポーランドの頑なな外交姿勢に業を煮やしたヒトラーが、 犬猿の仲であったソビエトと独ソ不可侵条約(1939年)を締結したのは、 ポーランドの強硬姿勢の背後に イギリスとフランスがいることを確信したからであった。 ポーランドの独立維持は英仏の安全保障になんの関係もなかった。 ダンツィヒをドイツ領に戻したとしても、 英仏の安全が脅かされるはずもなかったのである。 アメリカ国民の多くが、ダンツィヒ帰属問題で、 英仏がなぜドイツに宣戦布告したのか理解できなかった。 英仏はポーランドに対して、その独立を守るためにも ドイツとの妥協点を探るべきだとアドバイスすべきではなかったのか。 アメリカ国民は、英仏がいったい何を目的に ドイツに宣戦布告したのか皆目見当がつかなかった。 戦争目的のわからないヨーロッパの戦いに、 参入したいと思う国民がいるはずもない。 ヨーロッパでの戦端が開いても、 アメリカは介入すべきではないと考えるものがほとんどだった。 8割以上の国民だけでなく、与党民主党が圧倒的多数の ワシントン議会でさえも75パーセント以上の議員が 非干渉を主張していたのである。 1940年の大統領選挙では、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR) ら大統領候補はヨーロッパ問題への非介入を公約とせざるを得なかった。 ルーズベルトは投票日(11月5日)直前の ボストンの演説で次のように訴えた。 「私はこれまでも述べてきたように、そしてこれから何度でも繰り返すが、 あなた方の子供たちは外国の地での戦争に送り込まれることはけっしてない (1940年10月30日)。」 こうしてアメリカ国内ではヨーロッパ問題非干渉の 強い世論が形成されている中で、日本の真珠湾攻撃が起こる。 1941年12月7日早朝(ハワイ時間)のことである。 アメリカ国民は、ルーズベルト政権の対日外交などには関心はなかった。 ヨーロッパでの現在進行形の戦いだけに目を向けていた。 アメリカ国民にしてみれば後ろから鈍器で頭を殴られた感覚であった。 日本の在米資産の凍結も、対日石油禁輸にも強い関心はなかった。 ましてや、日米戦争の危機感を強めた近衛文麿首相が ルーズペルトとの直接会談を望んでいることも、 最後通牒の性格を強く待ったハル・ノートが 日本に手交されていたことも知りはしなかった。 こうして日米戦争が始まった。 この4日後の12月11日にはヒトラーは国会で演説し、 アメリカに宣戦布告した。 ヨーロッパの戦いはアメリカとアジアを 巻き込んだ世界大戦となったのである。 ルーズベルトは1944年の選挙でも勝利(四選)すると、 ドイツと日本の敗戦後の世界の枠組みを チャーチルとスターリンとの問で話し合った(ヤルタ会談:1945年2月)。 それは世界の半分を共産化することを暗黙に認めたもので、 自由主義諸国への裏切りであった。 チャーチルは参加していたものの、 ルーズベルトを手玉に取るスターリンに何の抵抗もできなかった。 戦争の始まりがポーランドの自由と独立の保持にあったことなど もはやどうでもよいことだった。 そして、その会談のわずか二ヵ月後にルーズベルトは世を去ったのである。 ルーズベルトの死後、彼の対日外交の詳細と日本の外交暗号解読の実態が 次第に明らかになり、ハル・ノートの存在が露見すると、 フィッシュは臍を噛んだ。 窮鼠(日本)に猫を噛ませた(真珠湾攻撃)のは ルーズベルトだったことに気づいたのである。 彼は、対日宣戦布告を容認する演説を行なったことを深く愧じた。 彼は、ルーズベルトに政治利用され、そして、議席を失ったのである。 ■訳者あとがき フランクリン・ルーズペルトは、大統領に権限を集中させた。 その集中は1929年に発生した恐慌(不況)からの 脱出を名目にしたニューディール政策を実行する過程で進められた。 ルーズベルトが見出した若手経済ブレーン集団(ブレイン・トラスト)は 次々に国家社会主義的な性格をもった連邦政府組織を設立し、 議会のコントロールがきかない予算を手中にしていった。 どのような組織が生まれたかは本書に詳しい。 NRA(全国復興庁)、AAA(農業調整局)、 TVA(テネシーバレー開発公社)などの頭文字三文字の新組織が 潤沢な予算を与えられ景気回復に努めた。 新組織の配分する資金がルーズベルトの権力を強化したのである。 しかし、こうした組織は景気回復に何の効果も生みはしなかった。 1937年にはあらたな不況に襲われ、一千万を超える失業者が世に溢れた。 本書でも述べられているように、ニューディール政策を 推進した経済ブレーンは社会主義思想を持つ者が多かった。 中には後にソビエトのエージェントであったことが判明した者もいた。 ルーズベルトがスターリンに無警戒だった理由もここにあった。 共和党政権が承認を拒んでいたソビエトロシアを、 大統領就任早々に承認(1933年)した事実は、 ルーズベルト政権のソビエトとの親和性が極めて高いことを示していた。 ルーズベルトはただ一点においてフィッシュを上回る才能を持っていた。 それは「政治屋」としての能力であった。 ヨーロッパの戦いへの非介入を願う、80%を超える世論と、 75%のワシントン議会の議員の意向を逆転させるために、 自身が「最も恐れ、そして激しく嫌悪」する男を利用したのである。 日本を経済的に追い詰めたうえ、 アメリカヘの完全なる隷属か戦争かの二者択一を迫る「ハル・ノート」を、 議会に隠したまま日本に手交した。 その結果、日本は真珠湾を攻撃した。 ハル・ノートを知らされていないフィッシュも、 アメリカ国民も日本は気が触れたと怒りに震えた。 ルーズベルトの行なった対日宣戦布告を求める演説に続いて、 フィッシュに対日戦争容認演説をさせることに成功したのである。 非干渉主義のリーダー的存在であったフィッシュ議員の演説の 効果は絶大であった。そのことはその後の歴史が示している。 ルーズベルトの死後、彼の外交の実態が次々に明らかにされていった。 ルーズベルトはハル・ノートを隠していただけではなかった。 なぜポーランドは強大なドイツの軍事力を前にして、 他のヨーロッパ諸国もあきれるほど頑なにドイツとの妥協を拒んだのか。 イギリスやフランスがなぜその安全保障に なんの関係もないポーランドを守るためにドイツに宣戦布告したのか。 そうした当たり前の謎を氷解させるルーズベルトの 対ヨーロッパ外交の実態が明らかになったのである。 私には、フィッシュがいつの時点で騙されたことを確信したのかわからない。 それがいつであったとしても、 フィッシュはその怒りをすぐには公にはできなかった。 もちろん怒りを公にすることは自らの愚かさを さらけ出すことであったからそれなりの躊躇はあっただろう。 しかし、公にできなかったのはそのようなパーソナルな理由ではない。 ルーズベルト外交のもたらした異形な世界、 つまり共産主義者の跋扈する世界が出現していたからである。 中国が共産化し、朝鮮戦争ではアメリカの若者が再び血を流す羽目になった。 そしてベトナムでは泥沼の戦争が続いていた。 「それみたことか」とルーズベルトを非難することはいつでもできた。 しかしフィッシュはアメリカの若者が 戦っている現実を前にしてそれができなかった。 抑制し続けた怒りを爆発させるためには 1976年まで待たなくてはならなかった。 1976年の持つ意味(米国建国二百年)は冒頭に記したとおりである。 本書を読了された読者の多くが、 これまで理解していた歴史観への疑問が湧いたのではないか。 英チェンバレン首相の対独宥和政策は、 弱腰外交の代名詞となっているが、それは正しい評価なのか。 ドイツとの宥和政策が成功していれば、 ドイツはソビエトに矛先を向ける可能性が高いとみていた 多くの政治家の存在はなぜ隠されているのか。 ドイツとソビエトの戦いの必然性を理解していた政治家にとっては、 ドイツが独ソ不可侵条約を結んでもなおソビエト侵攻(1941年6月)に 打って出るだろうことは予想できた。本書は私たちの頭の中に 根を下ろした通説の歴史観にも挑戦しているのである。 ■第1章 大統領と個人崇拝 ルーズベルトは、ニユーデイール政策に反対した者や 彼の干渉主義的な外交政策に批判的だった者を執念深く攻撃した。 ルーズベルトは大統領の任期は二期八年という 不文律を破った最初の大統領である。 そのことによって白らが最高の権力を持つ人間だと思い込んでしまった。 イギリスの政治家であり歴史家でもあるアクトン卿は、 「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対的に腐敗する」と述べた。 日本に発した最後通牒は、腐敗した権力の象徴であった。 ルーズベルトの死の直前に行なわれ 最悪の結果をもたらしたヤルタ会談(1945年2月)も、 絶対的な権力の不可避的腐敗の典型であった。 ルーズベルトがやったことは、議会の意向を無視して日本を挑発し、 日本に開戦を仕向けたのである。 これはわが国憲法の精神にも、わが国民の意思にも反した行為だった。 政治屋の権化でもあるルーズベルトは、 日本に対する最後通牒(ハル・ノート)の存在を隠し続けた。 政権そのものが沈黙を守った。 一般国民は今現在においても、 わが国の送りつけた最後通牒の存在さえ知らない。 ルーズベルトが用いた策略と騙しのテクニックは見事なものである。 あのレーニンに匹敵する狡猾さであった。 ルーズベルトの行為は反倫理的である。 ルーズベルトは狡猾で、抜け目のない政治家だった。 ホワイトハウスに居座って、 真珠湾攻撃の日は「(わが国の歴史に刻まれる)恥辱の日」などと演説し、 すべての責任を日本に被せたのである。 今にして思えば、まさにプロパガンダの茶番劇であった。 このプロパガンダは実に効果的であった。 すべての国民がころりと騙されてしまった。 すでに述べたように、 ルーズベルトは議会に知らせずに日本に対する最後通牒を発した。 そして戦争への介入に反対する非干渉主義者を徹底的に迫害した。 何人もの非干渉主義者を裁判にかけたが、有罪にはできなかった。 合衆国憲法の精神(言論の自由)が彼らを守ったのである。 ルーズベルトはこの世界の半分をスターリンに献上した。 そこには中国も含まれる。それはヤルタでの密約の結果であった。 ■第12章 ダンツィヒ帰属問題 1939年8月、ダンツィヒ問題はドイツ外交の喫緊の課題であった。 ヒトラーにとってダンツィヒを回復することは内政上の絶対条件であった。 ドイツ国家の威信に関わる案件であった。 ポーランド外相でさえ、ドイツの主張に理があることがわかっていた。 ヒトラーとスターリンは放っておけば、遅かれ早かれ戦うことになる。 それはわかりきっていたことだ。 両国の戦いは、破滅的に激しいものになっただろう。 そうなっていれば西ヨーロッパ諸国は、戦争の恐怖から解放されていた。 二人の独裁者が血みどろの戦いを続けるのを傍観することができた。 イギリスもフランスもドイツと戦う必要などまったくなかった。 ダンツィヒ問題が外交交渉で解決していさえすれば、 ポーランドはおそらく中立を保てたか、あるいはドイツの側に立って、 スターリンと戦っていたに違いない。 あの獣の所為であるユダヤ人六百万人の虐殺も 回避されていた可能性が高いのである。 イギリスがポーランドに独立を保証した。 それはポーランドに対して白紙の小切手を与えたようなものだった。 ポーランドの対ドイツ外交を強気一辺倒にさせてしまったのである。 ポーランドの態度が、くすぶり続けていた、 ドイツのベルサイユ体制の不正義に対する憎悪の火に油を注いでしまった。 ヒトラーは、1934年に締結されていた ドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄するのである。 今では多くの人が、ダンツィヒ返還要求は ドイツの側に理があったと考えている。 ポーランドは時間稼ぎを狙って対独交渉を渋っていた。 それが第二次世界大戦の導火線になったのである。 民族自決を唱えたウッドロー・ウィルソンが 作り上げた国がポーランド共和国であった。 彼らがせっかく手中にした自由はもろくも崩れ去った。 そして東ヨーロッパの国々は次々に共産化した。 これほどの悲劇があるだろうか。 ルーズベルトの対ポーランド外交は具体的にはどのようなものであったか。 それは1930年代にポーランド駐米大使であった イェジ・ユゼフ・ポトツキの報告書に詳しい。 以下は、ポトツキ大使が、米駐仏大使ウィリアム・ブリットと 交わした会談内容を報告したものである。 ブリット大使はルーズベルト政権のヨーロッパ全体を 管轄する全権大使のような存在であった。 ポトツキ大使の報告書は1939年1月16日付となっている。 「フランスとイギリスは全体主義国家とはいかなる妥協もしてはならない。 それが大統領(ルーズベルト)の断乎たる考えである。 両国は、どのような形であれ現行の領土の 変更を狙うドイツとの交渉に入ってはならない。 その要求の代償として、両国に対してアメリカは倫理的な約束をしている。 それはアメリカが孤立主義を止め、 戦争が起きた場合には積極的に英仏の側に立って干渉する、 というコミットメントである」 この文書は、ルーズベルトの1939年9月以前における 英仏への干渉の実態を示している。 ルーズベルトは両国への支援を約束した上で、ダンツィヒ問題をめぐる いかなる和平交渉にも反対であると表明していたのだ。 ルーズベルトがイギリスとフランスに対する外交攻勢で、 両国をドイツとの戦いに追いやった年、それが1939年であった。 繰り返しになるが、ダンツィヒはドイツ人の町である。 それがベルサイユ条約で失われた。ドイツの要求には正当性がある。 そのことをポーランドが理解できないはずがない。 ポーランドがそのダンツィヒ問題で国の存亡をかけてよいはずがない。 それは3000万のポーランド国民に対してフェアではない。 ダンツィヒ問題で、ナチスと共産主義者に国の独立そのものを 侵されるようなことがあってはならなかったのである。 ダンツィヒとポーランド回廊の帰属問題は、 ドイツの恨んでいるベルサイユ体制の 不正義解消の最後に残った懸案事項であった。 この問題が片付けば、ヒトラーの願いは叶えられたのである。 ヒトラーは、ポーランドとの平和的な外交交渉でダンツィヒ問題を解決し、 東方にその目を向けるはずであった。 ドイツは資源の自給自足を狙い 穀倉地帯と油田を持つソビエトロシアに侵攻するはずであった。 その侵攻のスケジュールはポーランドの了解のもとになされたはずである。 ポーランド国民は共産主義を嫌悪していた。 今から振り返ってみても詮ないことであるが、 ポーランドおよび他の東ヨーロッパの国々の運命が、 あの小さな町ダンツィヒの帰属をめぐる問題で ズタズタになってしまったのである。これほどの悲劇はなかろう。 アメリカ国民はダンツィヒという地名を聞いたことなどなかった。 そんな町が原因で、史上最大の破滅的な戦争に発展してしまったのである。 共産主義者のために一億人のヨーロッパ人の自由が奪われた。 あの戦争は、起こる必要もなかったし、 わが国には戦争を望む者はいなかった。 ■第13章 引き裂かれたポーランド ルーズベルトがヤルタ会談でみせたスターリンヘの譲歩は噴飯ものであった。 歴史家のチェンバレンはウォールストリート・ジャーナル紙 (1960年11月18日付)で次のように述べている。 「三巨頭(ルーズベルト、スターリン、チャーチル)は 1945年2月に聞かれたこの会議で、 東ヨーロッパと東アジアをスターリンに進呈したのだ。 ロンドンにあったポーランド亡命政権は見捨てられ、 スターリンに完全に操られた傀儡政権がポーランドを支配することになった」 「日本の領土であった南樺太、千島列島、 そして満洲もソビエト連邦に差し上げたようなものだった。 ヤルタの妥協で、ソビエトの中国共産党への援助を加速させた。 それによって最終的に国民党政府を放逐することができたのである。 ルーズベルト政権は1939年以前、 ヒトラーに対してはいかなる宥和的な外交政策も取らなかったし、 他国にもそうさせなかった。 そのルーズベルト政権が、スターリンには宥和的な態度で臨んだ。 それがどれほど不道徳的であり、 国民への裏切りになるとは思わなかったのだろうか」 「共産主義がヨーロッパや東アジアで勢力を拡張させ、 その支配をしっかりと固定化させた歴史的事実はいったい何を意味するのか。 それはルーズベルト大統領とその側近のハリー・ホプキンスも 共産主義の本質をいささかも理解していなかったことを示しているのである」 ルーズベルトやホプキンスの共産主義についての理解は未熟であったが、 アルジャー・ヒスはそうではなかった (筋金入りのソビエトのスパイであった)。 ホプキンスはスターリンの友人のような人物であり、 同時にルーズベルトの右腕であった。 そのホプキンスとヒスがヤルタ会談ではルーズベルトの外交顧問であった。 私がチェンバレン氏の評論を引用したのは 彼がソビエト問題の専門家であるからだ。 ルーズベルトは戦いに勝利しても平和を実現することができなかった。 わが国は戦死者三十万、戦傷者七十万という大きな犠牲を出した。 その見返りは何もなかった。 チェコスロバキアやポーランドがスターリンの支配下に入ってしまった。 ヤルタ会談こそが、その後の中国や北朝鮮、ベトナムに共産政権を成立させ、 他の東南アジア諸国にも共産主義勢力を拡散させたきっかけとなった。 朝鮮戦争もベトナム戦争もその原因は、ヤルタ会談にあるのだ。 ■第14章 大西洋憲章の欺隔 アメリカの参戦以前からルーズベルトは裏工作を続けていた。 その工作はヤルタ会談まで続いた。 ソビエトが満洲、大連、旅順にまで侵攻し、 (日本の領土である)千島列島や南樺太まで 領有することが秘密裏に承認されていた。 戦後に設立が構想されていた国際連合ではソビエトは三つの票を持つこと、 ドイツの戦争捕虜を戦争終了後も使役することも了解されていた。 ルーズベルトは、ヤルタ会談は自由な国家が (全体主義国家に対して進めた)戦いの勝利の証だと宣言していた。 しかし実態は、ポーランドを筆頭にした東ヨーロッパの共産化を 容認したものである。 結局その態度が中国までも共産化させてしまうことになった。 ルーズベルトはスターリンとの密約を隠し続けた。 それはルーズベルトの死後も明かされることがなかった。 その内容を明らかにしたのはソビエトであった。 1946年1月、極東に関する密約の存在をソビエトが公開した。 また、ルーズベルトが否定していたドイツ人捕虜の強制労働容認の事実が 明かされたのはドイツが降伏してから数年後のことであった。 ■第22章 中国の共産化 ルーズベルト外交が中国を共産化させた。 歴史書は、われわれはあの戦いに勝利したと教える。 何十万という若者がヨーロッパや極東での戦いで命を落とし、傷ついた。 それでもあの戦いは偉大な、そしてまた栄誉あるものだったと教えている。 歴史家は、あれは自由と民主主義の国が、 軍国主義で全体主義の枢軸国と戦ったのだ、と主張する。 われわれの血は世界の平和と安寧の実現のために流されたのだと教える。 しかし彼らは、あの1945年2月のヤルタ会談で、 そうした戦いの意義が失われてしまったことを、けっして口にはしない。 戦いは平和の実現のためのはずだった。それさえも実現できなかった。 ドイツと日本は全面降伏した。 それからわずか4年後に共産主義者が中国を制圧した。 ルーズベルトとマーシャルは大間違いを犯したのである。 その失策は私たちをこれから何世代にもわたって苦しめるだろう。 もしかしたら、これまでにないほど 悲惨な結果をもたらす核戦争の危険まである。 先の戦いの勝利の果実をもぎとったのはスターリンだった。 ルーズベルトのヤルタでの失敗がわれわれの将来を危うくしてしまった。 建国以来200年が経ったが、彼の失策が最悪の結果を生んだのである。 あの戦いが終わったと思ったら、 わずか5年で今度は韓国に36万もの兵士を送る羽目になってしまった。 共産主義者の侵攻を止めるためである。 その結果、3万8千の若者を死なせてしまった。 彼らは故国から9千マイルも離れた土地で命を落としたのである。 なぜこんなことになってしまったのか。 わが国が蒋介石を裏切ったからにほかならない。 わが国の最悪の過ちが、赤い中国を生み、 朝鮮、台湾、ベトナムでの緊張を惹起してしまったのである。 中国はおよそ8年にわたって日本と戦った。 多数の中国人の犠牲で戦いに勝利したはずだった。 その中国を、なぜわが国は裏切ったのか。 スターリンの餌食にしてしまったのか。 今それが問われている。 中国を共産化させてしまったことは犯罪行為にも等しい。 共産中国は世界中に暴力革命を引き起こそうと躍起になっている。 ■第16章真珠湾の悲劇 ルーズベルト大統領が米国議会と国民に 対日宣戦布告を求めた「恥辱の日」演説は、 日本の真珠湾攻撃を糾弾するものであった。 それを受けて、私を含むすべての国民がルーズベルトを支持した。 アメリカ国民は、何の挑発もされていないにもかかわらず 日本が卑劣な攻撃をわが国に仕掛けてきたことに驚いたのであった。 宣戦布告のない、こずるい攻撃が真珠湾攻撃であった。 それに対する苦々しい思い。 それが怒りとなり狂信的とも思えるほどの敵愾心へと変貌した。 だからこそ全国民が政治信条、党派を超えて大統領を支持したのである。 しかし、われわれは大統領が仕掛けた罠を知らなかった。 彼はわれわれを騙して戦争を始めたのである。 85%の国民が反対していた戦争を始めさせたのである。 私たちは、日本が和平交渉の真っ最中に わが国を攻撃したものだと思い込んでいた。 1941年11月26日の午後、国務省で日本の野村大使に最後通牒が手交された。 それはハル国務長官が手渡したものである。 ワシントンの議員の誰一人としてそのことを知らなかった。 民主党の議員も共和党の議員もそれを知らされていない。 これは戦争を始めたくてしかたがない ルーズベルト政権の巧妙な陰謀にほかならない。 彼らは11月25日にホワイトハウスに集まった。 高官の顔ぶれは、ハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、 マーシャル将軍、スターク提督である。 その日の議題はたった一つ。 いかにして最初の一撃を日本に放たせることができるかであった。 日本を挑発して、彼らに攻撃の火蓋を切らせるにはどうしたらよいか。 それを協議するために集まった。 この会議の結果があの日本に対する最後通牒であった。 それは議会と国民の意思を無視するものであり、 そしてまた合衆国憲法に違反するものであった。 ルーズベルトは1940年10月8日には日本との戦争を考えていた。 彼は当時太平洋艦隊司令官であったリチャードソン提督に、 日本は必ず間違いをしでかしてくれるだろう、 わが国に戦争を仕掛けてくるだろうと語っていたのであった。 真珠湾攻撃の14ヵ月前からルーズベルトは 日本との戦争を起こし参戦することを画策していたのである。 1941年8月、ルーズベルトはチャーチルと会った (大西洋会談:カナダ・ニューファンドランド沖での会談)。 ルーズベルトは東アジアにおけるイギリスの利権を守ることを そこで約束したのである。 しかしそのことはアメリカ国民には知らされていない。 このことは1942年1月27日のチャーチル首相の発言で確かめることができる。 チャーチルは議会で次のように述べていた。 「大西洋会談の際にルーズベルトは、たとえアメリカが攻撃されない場合でも 極東においてアメリカは参戦すると約束してくれた。そうなれば、 われわれの勝利は確実である。彼の言葉は私の憂いを和らげてくれた」 ルーズベルトはグリア号事件についても、明らかな嘘をついていた。 彼は国民に次のように語っていた。 「私は事実だけを述べる。 最初の攻撃を仕掛けてきたのはドイツ潜水艦である。 彼らの攻撃は無警告で、確実に撃沈を狙っていたものである」 ウォルシュ議員は上院海軍委員会におけるスターク提督への質問で、 このルーズベルトの言葉が真っ赤な嘘であることを明らかにしている。 アメリカ海軍駆逐艦グリア号はドイツ潜水艦を三時間にわたり追尾していた (1941年9月4日)。 潜水艦の位置を、共同作戦を展開していたイギリス軍機に知らせている。 イギリス軍機はその情報に基づいて機雷を投下していた。 ドイツ潜水艦が反撃したのは、イギリス軍機が燃料を 使い切り去っていった後であった。グリア号は潜水艦追尾を継続していた。 この上院海軍委員会の報告書もしばらく公開されないでいた。 1941年10月17日にドイツ潜水艦に攻撃されたとされる駆逐艦キアニー号事件 についてのルーズベルトの国民への説明も同じように嘘にまみれていた。 ドイツ潜水艦に最初に機雷投下したのはキアニー号であり、 その結果反撃されたというのが真相であった。 この二例は、ルーズベルトがわが国民に虚偽の説明をし、 国民にドイツ憎しの感情を醸成した典型的な事例であった。 ルーズベルトは計算ずくで国民を欺いていた。 真珠湾攻撃の二ヵ月前、ルーズベルトはドイツ艦船と潜水艦は 見つけ次第攻撃すべしとの命令を発した。 しかしヒトラーは攻撃されない限りアメリカ海軍との交戦は 避けるようにと指示していた。 ルーズベルトのドイッヘの挑発はうまくいかなかったのである。 その結果、日本がルーズベルトの犠牲になった。 スターク提督は上下院合同調査委員会で次のように証言している。 「わが国は国際法の観点からすれば交戦国ではなかった。 宣戦布告をしていなかったからである。 しかしキング提督指揮下の(大西洋海域での) 米海軍は戦争状態にあったようなものである。 一定の海域に侵入するドイツ艦船には攻撃を仕掛けていた」 スタークの証言と日本に対する最後通牒に鑑みれば、 ルーズベルトがアメリカを参戦に導こうとしていたことは 「合理的な疑い」の余地を持たせない。 われわれにとって幸いなことに、スチムソン陸軍長官が日記を残していた。 それにより、1941年11月25日にワシントン中枢で 何か起こっていたか知ることができる。 この日ルーズベルトはハル、ノックス、マーシャル、スタークを ホワイトハウスに招集した。 ヨーロッパの状況はこの日の会議では話題になっていない。 この日に検討されたのは、 いかにして日本に最初の攻撃の火蓋を切らせるかであった。 スチムソンの日記はエール大学に保存され、 研究者はいつでも閲覧が可能である。 このことはチャールズ・タンシル(ジョージタウン大学歴史学部長)の 『裏口から仕掛けたアメリカ参戦』(1953年刊)に詳しい。 この書はどの図書館でも閲覧することができる。 また、歴史学者チャールズ・ビーアドの著作『ルーズベルトと1941年の開戦』 を読めば、わが国がいかにして あの戦争に巻き込まれていったかが一目瞭然である。 ほかにも同様な主張の書は多い。 そうした書物によって真珠湾攻撃の真実や、 わが国の戦いの基本理念がヤルタ会談で蔑ろにされた事情を 知ることができる。 また先に紹介したロバート・A・セオボールド海軍准将の著書 『真珠湾最後の秘密』は必読の書である。日本にどのように攻撃を 仕掛けさせたかがよくわかる部分をここに一部抜粋しておく。 「ルーズベルト大統領がリチャードソン提督と言葉を交わしたのは 1940年10月のことである。 その会話で(ルーズベルトが)何か大きな事件が起きなければ、 議会はわが国の参戦を承認しないだろうと考えていたことがわかる」 「1941年半ば以降、宣戦布告なきドイツとの戦いは実質的に始まっていた。 しかしドイツはわが国との本当の戦いが始まるのを避け続けた」 「1941年5月にはフィリピンからの日本向け輸出が 大統領令によって止められた。同年7月25日には日本の対米資産が凍結され、 米、英、蘭は日本との交易を完全に停止した。 11月26日には米日の交渉も停止した。 ハル国務長官が野村大使に最後通牒を手交したからである。 このことは真珠湾攻撃以前には議会にも国民にも知らされていなかった」 「大統領も陸海軍指導者も、この最後通牒によって いつ日本の奇襲攻撃があってもおかしくないことを理解していた。 真珠湾に太平洋艦隊を配置したのは彼らの攻撃を誘い込むものであった。 その上、太平洋艦隊は1941年3月には (大西洋方面へ艦隊の一部をシフトさせていた結果) その戦力が低下していた」 「ハワイの二人の司令官は、解読された日本の暗号について 何も知らされていないと述べている。 これは日本に奇襲攻撃をさせるための布石であることの証左である。 日本の戦いの歴史を知る者は、日本が敵国の主要艦隊に奇襲攻撃を 仕掛ける戦法を得意にしていることを知っている。 1894年の対清国、1904年の対ロシアの戦い然りである。 ハワイの太平洋艦隊こそ日本の格好のターゲットになり得る存在だった」 「東京からワシントン大使館に送付された暗号電は、 26日のハル・ノートを最後通牒とみなし、 さらなる交渉はもはやないことを示していた。 12月1日と2日には文書廃棄の指令があった。 このことは奇襲攻撃が迫っていることを示している。 12月6日午後3時には解読された暗号電が ルーズベルト以下の高官に配布されている」 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 |
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