正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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北方領土が日本の領土である根拠

千島列島と南樺太



北方領土:A.歯舞群島(歯舞諸島)、B.色丹島、C.国後島、D.択捉島
1.色丹村、2.泊村、3.留夜別村、4.留別村、5.紗那村、6.蘂取村
北方領土

●1855年2月7日、 日露通商条約(下田条約)
択促島と得撫島の間に日露の国境線を定めた。樺太の国境は定めなかった。

●1875年(明治8年)5月7日、樺太・千島交換条約。
日本は樺太の領土権を放棄し、
得撫島から占守島までの千島列島(クリル諸島)の領土権を得た。

●1905年9月5日、ポーツマス条約で南樺太(北緯50度以南)が日本領となる。

◆1945年(昭和20年)8月14日、日本、ポツダム宣言を受諾。

●1945年(昭和20年)8月18日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が
カムチャツカ半島方面より千島列島北端の占守島に上陸し、
日本軍守備隊と戦闘となったが、21日に日本軍の降伏により停戦が成立し、
23日、日本軍が武装解除して「占守島の戦い」は終わった。
8月28日から9月1日までにソ連軍は北方領土の択捉・国後・色丹島まで占領、
9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領して北方領土の不法占拠が始まった。
捕虜となった日本兵の大勢がシベリアへ抑留されたが、その法的根拠は無い。
ソ連軍の横暴
武装解除を拒否して居留邦人4万人を守り抜いた日本軍
大東亜戦争後の満洲争奪戦

★択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の北方四島は、
一度も他国の領土となったことはない。
サンフランシスコ平和条約でも日本が放棄する領土に含まれなかったので
連合国48ヵ国(ソ連は不参加)も承認している。よって北方四島は
歴史的にも国際法的にも完全に日本固有の領土であり世界も認めている。

★北方四島以外の千島列島は、日本が戦争によって得た領土ではなく、
1875年、日露が平和裏に交渉して締結した千島樺太交換条約によって
日本の領土になった。

★南樺太は日露戦争の戦後処理条約の
1905年ポーツマス条約によって日本の領土となった。

1952年サンフランシスコ平和条約 第二章 領域 第二条 (C) で、
日本は千島列島と南樺太を放棄させられたが、
千島列島と南樺太の帰属がロシアにあるとは認められていない。
千島列島と南樺太の最終的な帰属は、
将来の国際的解決手段に委ねられる事となっており、
それまでは千島列島と南樺太の最終的な帰属は未定となっているが、
旧ソ連はサンフランシスコ平和条約には調印していないうえ、
日本はソ連との間で「千島列島と南樺太」についての
特別な条約は結んでいない。
つまり千島列島と南樺太は正式にはどの国にも帰属しておらず、
元日本領なので、あらためて日本は領有権を主張し直すことができる。
北方四島の領有を主張すれば北方二島の返還に後退する恐れがあるが、
大きく「千島列島と南樺太」の領有を主張しておけば
後退しても北方四島の返還は確保され得る。

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2004年10月14日、ロシアのプーチン大統領と
中国の胡錦濤国家主席とのあいだで中露国境協定が締結され、
ロシアが実効支配していたタラバロフ島全域と、大ウスリー島の西半分が
中国に明け渡され、内モンゴルのアバガイト島は中露で二等分された。
中国は日本のようにロシアと共同経済活動などしなかった。
中国がやったことは核ミサイルの増強だった。
ロシアは中露紛争の原因となり得る領土問題を解決して
軍事的脅威を減らす判断をしたのだ。
日本も中国のように核武装して戦力を増強すれば、
ロシアは真剣に日本との紛争解決の必要性を痛感し、
結果として四島が返還される可能性は高まる。

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日露和親条約以前から北方4島日本領 「大英帝国」作成地図で明示

産経新聞 2019.4.19 12:14
https://www.sankei.com/world/news/190419/wor1904190014-n1.html

英国の地理学者兼地図製作者、アーロン・アロースミスが
1811年に作成した「日本、クリル(千島)列島」。択捉島以南の
北方四島が北海道と同じ青色で日本領とされている
(英国立公文書館所蔵、岡部伸撮影)
英国の地理学者兼地図製作者、アーロン・アロースミスが1811年に作成した「日本、クリル(千島)列島」。択捉島以南の北方四島が北海道と同じ青色で日本領とされている(英国立公文書館所蔵、岡部伸撮影)

英ビクトリア女王付き地理学者ジェームズ・ワイルドが1840年作成の
「日本、クリル(千島)列島」地図。
得撫島までが北海道と同じ赤色で描かれ、
北方四島と得撫島までが日本領とされている
(英国立公文書館所蔵、岡部伸撮影)
英ビクトリア女王付き地理学者ジェームズ・ワイルドが1840年作成の「日本、クリル(千島)列島」地図。得撫島までが北海道と同じ赤色で描かれ、北方四島と得撫島までが日本領とされている(英国立公文書館所蔵、岡部伸撮影)

19世紀前半に英国王付きの地理学者が北方四島
(国後(くなしり)、択捉(えとろふ)、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん))
を日本領として扱った地図が英国立公文書館で見つかった。
地図は英外務省の公式文書として保管。覇権国として「世界標準」を
設定していた大英帝国が、北方四島を日本領と定めた1855年の
日露和親条約以前に日本領と認定していたと推定され、
北方領土交渉をめぐる日本側の主張を裏付ける資料といえそうだ。

今回確認されたのは、1811年にアーロン・アロースミスが作製した
「日本、クリール(千島)列島」と、
40年にジェームズ・ワイルドが作製した
「日本、クリール(同)列島」の両地図。

アロースミスの地図は、択捉以南の四島が北海道と同じ青色に塗られ、
択捉島とウルップ島(得撫島)の間に国境線が引かれたと認識できる。

ワイルドの地図では、ウルップ島までが北海道と同じ赤色に塗られている。

いずれの地図にも、北方四島近くに「Providence」
との表記があり、プロビデンス号で1796年に北海道に上陸し、
翌年、北海道西岸を測量した英海軍士官、
ウィリアム・ブロートンの探検結果を反映したとみられる。

ブロートンは著作「北太平洋探検航海記」の中で、
(択捉島に当たる)北緯45度25分までは「エゾ(日本領)」と記した。
このためアロースミスらは、ウルップ島より南の択捉以下の四島は
自然生態系上、北海道と同じと判断したとみられる。

両地図は、ウルップ島より北の島々をクリール諸島と記し、
四島を千島列島(クリール諸島)に含めていない。

ただ両地図には、択捉島に
「or Itrup of Russians(またはロシア人のエトロフ島)」、
ウルップ島に「or Urup of Russians
(またはロシア人のウルップ島)」と併記し、
露側の主張に一定の配慮を示した形跡もある。

アロースミスは1790年、メルカトル図法による大型世界地図を製作し、
国王ジョージ4世付きの水路学者となった。
同地図はキャプテン・クックの探検航海の成果で架空の南極大陸
「メガラニカ」を消滅させるなど当時最新のものだった。

ワイルドも、アヘン戦争における中国の地図に香港を
初めて登場させるなど、ビクトリア女王付き地理学者として活躍した。

幕末の日本では、江戸幕府の天文方(天文地理学者)だった高橋景保が
1807(文化4)年に世界地図作製の幕命を受け、
アロースミスの世界地図を原図として16(文化13)年に
両半球世界図「新訂万国全図」を完成させた。

アロースミスの地図を日本は04(文化元)年に
長崎に来航した露通商使節レザノフから入手。
当時のロシアも同地図を世界標準と認識していた可能性がある。

公文書館ではアロースミスとワイルドの地図を日露間で領有について
主張が対立するクリール(千島)関連の
外務省公文書(FO925)として保管。
当時の英国が少なくとも択捉島以北で
日露間の国境を認定していたことをうかがわせる。

2016年来日したプーチン露大統領は、
日露和親条約で四島を日本に引き渡したとし、
「ロシア人航海者によって開かれたため、
それまで(条約以前)は、ロシアに帰属していると考えていた」
と主張した。
日本は、ロシアに先んじて四島を発見・調査し、
遅くとも19世紀初めに実効支配を確立したとしている。

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2016/02/07 06:00|年表リンク用資料
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