正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

ホーム 全記事一覧 << 日本のアヘン政策の時代背景 壬午政変(じんごせいへん) >>
1882年、アメリカで支那人移民禁止法制定

19世紀半ばのゴールドラッシュにより、
たくさんのチャイニーズ・クーリー(支那人の下層低賃金労働者)が
支那からアメリカ西海岸にやってきた。

アメリカの東部ではアフリカから黒人を奴隷として連行してきて
綿花栽培などをさせていたが、
支那からは大量の移民を受け入れて鉄道施設や鉱山開発をやらせた。

貨物船の一番下の階に押し込まれ、
死ねば海へ投げ込まれるという非人間的な扱いを受けて
アメリカにたどり着いた点では支那人も黒人も変わりはなかったが、
西部に来た支那人たちは給料を貯め、
商店を開いたり、共同で農地を買ったりした。

アメリカ大陸に来た白人は初めの頃はイギリス人、フランス人、オランダ人
などが主流で、白人の中でも当時は「一流国」の人間が多かった。
後から来たのはイギリスやロシアに支配されていたアイルランド人や
東ヨーロッパからの白人が多く、
彼らはアメリカに渡っても東部はすでにいる白人たちが居座っていた。

そこで後から来た白人たちはやむなく西へ向かったのだが、
そこには支那人がすでに暮らしていた。
白人移民の自分たちは資産を何も持っていないのに
有色人種の移民である支那人はすでに店を経営していたり、
農地を持っていたりしていたのだ。

これに怒り狂った白人たちは支那人の移民たちに暴力をふるい始めた。
支那居住区が襲撃されるようになり、多くの支那人が殺された。
支那人の村を集団で襲って皆殺しにして農地を強奪することまで起こった。
当時の支那政府(清朝)は知らんぷりだった。
満州人の皇帝からすれば、被征服民族である支那人で国を捨てた者など
気にもしなかったのである。

そのためアメリカの白人たちは復讐されることなく
支那人を思うまま殺すことができ、無害な最下級労働者にすることができた。

そして、1882年に、アメリカでは支那人移民を
完全に禁止する法律が制定された。
この法律により支那人はアメリカに移住できなくなった。
この法は1943年に廃止されるまで続いた。
支那がアメリカの同盟国になったためである。
2010/02/12 06:00|年表リンク用資料
Copyright(C) 2006 正統史観年表 All Rights Reserved.
Powered by FC2ブログ. template designed by 遥かなるわらしべ長者への挑戦.