正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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侵略の手先だった宗教

宗教や共産主義、自由主義などの思想は「侵略の手法」ではないか。

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フランシスコ・ザビエル鹿児島上陸
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-14.html
バテレン追放令
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-16.html

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『九州御動座記』より引用

バテレンどもは、諸宗をキリスト教に引き入れ、
それのみならず日本人を数百、
男女によらず黒舟へ買い取り、
手足に鉄の鎖を付けて船底へ押し入れた。
抵抗すれば生きながらに皮をはぎ、地獄の苦しみを与えた。

―――――引用おわり―――――――

キリシタンは、火薬などと引き替えに多数の若い日本人女性を
奴隷としてポルトガル商人に売り払った。その数50万人という。
キリシタンは日本をスペインの植民地にする工作員だったといえる。
豊臣秀吉や徳川家康は、日本の独立を守るためキリシタン勢力と戦った。

日本では1540年代にポルトガル人が初めて種子島に鉄砲をもたらした
とされるが、その数年後から早くも日本人女性を奴隷として
ポルトガル商人に売り飛ばす奴隷貿易が始まった。

IHS(イエズス会)のザヴィエルは、
日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じた。

イエズス会のルイス・デ・アルメイダは日本に火薬を売り込み、
交換に日本女性を奴隷船に連れこんで
海外で売りさばいたボスの中のボスだった。

―――――――――――――――――

『天皇のロザリオ』鬼塚英昭著 平成16年10月刊 自費出版 P249~P282

徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、
秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。

『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに
女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、
女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。

ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、
ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、
日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで
海外で売りさばいたボスの中のボスであった。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、
天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、
その報告書を見ると、
キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。
ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが
秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、
奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、
もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、
インドやアフリカまで売っている』と。

日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、
キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。
しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、
火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇を
どうして語り継ごうとしないのか。
キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。

―――――――――――――――――

『ブラジル学入門』中隅哲郎

P164
(日本では)一五五〇年から一六〇〇年までの五十年間、
戦火に負われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、
海外に運ばれていった。

P165
アルゼンチンのコルドバ市の歴史古文書館には、
日本人奴隷を売買した公正証書が残されている。

―――――――――――――――――

『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』
池本幸三/布留川正博/下山晃共著 人文書院 1995年 第2章コラム
P158~160より転載

コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷

天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。
その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を
厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、
奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。

「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。
付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。
右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、
忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に
漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。
16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも
日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された
有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が
奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。

「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を
親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に
(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に
燃え立たざるを得なかった。」

「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、
世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値で
さらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、
憐憫の情を催さない者があろうか。」

といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。
この時期、黄海、インド洋航路に加えて、
マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、
1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。

秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであった
ガスパール・コエリョに対し、
「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、
そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。
南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、
実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を
目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように
怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には
当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、
それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇と
まったくといって良いほど同等である。
「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、
インド洋にも開設されていたのである。

「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、
それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、
手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、
地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、
生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」

といった記述に、当時の日本人奴隷貿易に
つきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。

ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、
「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」
という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。
秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。
(以下略)

―――――――――――――――――

るいネット 北村浩司 2018/04/24
イエズス会は日本で何をしてきたか
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=335080

■日本人の奴隷貿易

1587年九州平定過程にあった秀吉は、イエズス会の日本のトップである、
ガスパル・コエリョに、イエズス会の日本での行為について詰問している。

「予は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、
カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らから
その祖国、両親、子供、友人を剥奪し、
奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。
それらは許すべからざる行為である。」(ルイス・フロイス「日本史4」)

当時キリスト教は教義で奴隷を公認しており、
イエズス会は商船の奴隷貿易に関する許認可権をもっていた。
コエリョ自身がポルトガル商人に代わって
日本人奴隷売買契約書に署名した記録もある。

日本人奴隷貿易は15世紀後半には16世紀の後半には、
ポルトガル本国やアメリカ、メキシコ、南米アルゼンチンにまで及んでいた。

『東洋ポルトガル古記録』には
「ゴアにはポルトガル人の数より日本奴隷の数の方がより多い」
「日本人奴隷は男よりも女が好まれた。
行き先はゴアを中心とする東南アジアだが、
ポルトガル本国にも相当数入っている」と記されている。
ローマに派遣された少年使節団も、世界各地で多数の日本人が
奴隷の身分に置かれているのを目撃して驚愕している。

彼らは大村、小西らキリシタン大名らにより
捕虜とされたもの達や仲介商人によるものである。
奴隷売買と引き換えに当時日本では希少価値であった硝石と交換され、
硝石一樽と日本人女性50人が交換されたという記録もある。
当時の日本人の奴隷売買は人口1200万に対し2万人から4万人余と推定される。

■寺社の破壊と僧侶の殺害

秀吉は同じくイエズス会のコエリョに
「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院を破壊し、
その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」と詰問する。

秀吉は農村秩序の核になっている寺社の破棄を、かなり重く見ていた。

実際特に九州では寺社破壊は凄まじく、
例えば大村領では神社仏閣が破壊され、
その結果6万人以上のキリスト教信者が生まれ、87の教会ができたという。
寺社破壊はキリシタン大名の統治する地域で日本各地に及んだ。
キリシタン大名であった高山右近は大阪の高槻城主であった時に、
普門寺、本山寺、広智寺、神峯山寺、金龍寺、霊山寺、忍頂寺、春日神社、
八幡大神宮、濃味神社といった大寺社を
焼き討ちにより破壊したといわれている。

イエズス会のコエリョをはじめ当時の宣教師の多くは仏像や仏教施設の
破壊にきわめて熱心であり、九州では信者を教唆して
神社仏閣破壊させたことをフロイス自身が書いている。

■島原の乱の真相

キリシタンの悲劇として描かれている最大のものが
1637年の『島原の乱』である。
教科書からは島原・天草地方のキリシタン弾圧が酷く、
重税を課したことから農民たちが圧政に立ちあがったと読める。
しかし事実はかなり異なっている。

当時の反乱勢は3万7千人、篭城戦時では幕府軍は12万以上で
圧倒的な差がありながら制圧に半年を費やしている。
しかも緒戦においては板倉重昌率いる幕府軍4万人は惨敗。
一揆勢の死傷者が僅かに7名なのに対し、
幕府軍の死傷者は4千名にのぼった。しかも板倉は討ち死にしている。

これは、反乱勢が大量の武器弾薬を保有していたからにほかならない。
では、彼らが大量の鉄砲などを保有していただけではなく、
その使い方にも習熟していたのは何故なのか。

まず、一揆勢の中心が百姓ではなく、
キリシタン大名だった有馬や小西の残党だったことである。
有馬と小西は関が原の合戦において西軍側につき、他国に移封される。
『天草征伐記』と『徳川実記』等の記述にも、
キリシタン大名であった小西行長の遺臣が中心になって、
それに有馬の旧臣も加わって、困窮した農民を糾合して蹶起したとある。

しかもただの「農民」とは思えない行動が目立つ。
一揆勢の行動で目に付くのは寺社への放火や僧侶の殺害である。
有馬村では村民らが、所々の寺社を焼き払ってキリシタンに戻ると宣言し、
これに周辺八ヵ村の村民らが同調して寺社に火を点け、
キリシタンにならない村民の家には火をかけている。

さらに島原城の城下町でも江東寺、桜井寺に放火している
(『別当利杢左衛門覚書』)
また彼らは、代官の林兵左衛門を切り捨てた後、村々へ廻状を廻し、
代官や『出家』『社人』(下級神官)らをことごとく
打ち殺すように伝達した為に、僧侶、下級神官や『いきがかりの旅人』
までが殺されたという(『佐野弥七左衛門覚書』)。

その後彼らは、九州諸藩の討伐軍の接近を知って島原半島に移動し、
島原の旧主有馬家の居城で廃城となっていた原城に籠城する。
島原と天草の一揆勢が合流し、
大量の鉄砲と弾薬を保有してこの場所に立て籠もったのである。

彼らが原城に籠城したのはポルトガルなどの外国勢力の
支援を期待していた可能性があり、少なくとも幕府は
ポルトガル等の支援を警戒していた。それには理由がある。

ポルトガルやスペインには
明と朝鮮を日本の傭兵を使って占領する計画があった。
その際幕府と対立することは確実で、
九州のキリシタン大名を幕府から離反させる計画であった。

そのためには長崎周辺を軍事拠点化する必要がある。
クルスがイエズス会に宛てた書翰によれば、
九州が日本から離反する際には、キリシタン大名達が
ポルトガル人に基地を提供することは確実で、
特に小西行長が志岐港を差出すことを確実視している。
キリシタン大名たちとの間で計画は相当詰められていたようだ。

更にフランシスコ会の宣教師の本国への報告によれば
「有馬や長崎は1590年には軍事要塞工事が行われており、
イエズス会の宣教師達は、長崎近辺に有している村落の
キリスト教徒たち全員に、三万名の火縄銃兵を整えた」とある。

イエズス会は来たるべき戦いの為に、多くの武器弾薬を準備し、
長崎近隣の信徒達に火縄銃の訓練をさせていたのだ。
乱の中心勢力は小西行長や有馬の家臣である。
スペイン・ポルトガルの影を幕府が想定したのは不思議ではない。

この3万挺の銃などの大量の武器の押収記録はない。
大量の武器は島原、天草、ポルトガル船などに分散して隠され、
訓練は江戸時代に入ってからも密かに続けられていた可能性が高い。
そう考えないと、島原の乱における単なる百姓一揆とは思えない軍事行動や、
大量の武器の調達や島原藩や唐津藩などの
正規軍を一時圧倒したことの説明は困難だろう。

―――――――――――――――――

Japan On the Globe(154) 国際派日本人養成講座 H12.09.03
地球史探訪:キリシタン宣教師の野望
キリシタン宣教師達は、
日本やシナをスペインの植民地とすることを、神への奉仕と考えた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog154.html

■1.日本布教は最も重要な事業のひとつ■

イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは
日本に3年近く滞在した後、1582年12月14日付けでマカオから
フィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のような手紙を出した。
――――――――――
私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、
神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができる。
何故なら、国民は非常に高貴且つ有能にして、理性によく従うからである。
尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。
何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、
最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、
また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、
征服が可能な国土ではないからである。
しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、
日本は時とともに、非常に益することになるだろう。
それ故日本の地を極めて重視する必要がある。
★「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎p83
――――――――――
「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、
スペイン国王によるシナの植民地化である。
日本は豊かでなく、強すぎるので征服の対象としては不向きだが、
その武力はシナ征服に使えるから、
キリスト教の日本布教を重視する必要がある、というのである。

■2.シナ征服の6つの利益■

スペインの勢力はアメリカ大陸を経て、
16世紀半ばには太平洋を横断してフィリピンに達し、
そこを足場にしてシナを始めとする極東各地に対し、
積極的な貿易と布教を行っていた。

宣教師達はその後もスペイン国王にシナ征服の献策を続ける。
1570年から81年まで、10年以上も日本に留まって
イエズス会日本布教長を努めたフランシスコ・カブラルは、
1584年6月27日付けで、スペイン国王あてに、
シナ征服には次の6つの利益があると説いている。
第1に、シナ人全体をキリスト教徒に改宗させる事は、主への大きな奉仕であり、
第2にそれによって全世界的に陛下の名誉が高揚される。
第3に、シナとの自由な貿易により王国に多額の利益がもたらされ、
第4にその関税により王室への莫大な収入をあげることができる。
第5に、シナの厖大な財宝を手に入れる事ができ、
第6にそれを用いて、すべての敵をうち破り短期間で世界の帝王となることができよう、と。

このようにスペイン帝国主義と、イエズス会の布教活動とは、
車の両輪として聖俗両面での世界征服をめざしていた。

■3.日本人キリスト教徒の「ご奉公」■

さらにカブラルはシナ人が逸楽にふけり、
臆病であるので征服は容易であると述べ、その例証に、
13人の日本人がマカオに渡来した時に、
2~3千人のシナ人に包囲されたが、その囲みを破り、
シナ人の船を奪って脱出した事件があり、
その際に多数のシナ人が殺されたが、
日本人は一人も殺されなかった事件をあげている。
――――――――――
私の考えでは、この政府事業を行うのに、最初は7千乃至8千、
多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。
・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が
容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。
彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、
陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、
月に1エスクード半または2エスクードの給料で、
暿暿としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。
★「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎p95
――――――――――

日本に10年以上も滞在したイエズス会日本布教長は、
日本人を傭兵の如くに見ていたのである。

■4.人類の救済者■

――――――――――
宣教師は教会のほか、学校や病院、孤児院を立てた。
地球が球形であることを伝え、一夫一妻制を守りるよう説いた。
これらにより、キリスト教の信者が西日本を中心に増えた。
この当時、キリスト教とその信者をキリシタンといった。
――――――――――

中学歴史教科書の一節である。
同じページにはザビエルの肖像画があり、
そこに記されたIHSという文字について、
「イエズス会の標識で『耶蘇、人類の救済者』の略字」と説明される。
キリシタン宣教師達は、まさに未開の民に科学と道徳を教え、
社会事業を進める「救済者」として描かれている。

数ページ後には家康によるキリシタン弾圧が次のように描かれている。
――――――――――
家康は貿易のために、はじめキリシタンを黙認していたが、
やがて禁教の方針をとった。
信者に信仰を捨てるように命じ、従わない者は死刑にした。
★「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎p130
――――――――――

さらに家光が、「キリシタンを密告した者に賞金を出すなどして、
キリシタンを完全になくさせようとした」事を述べ、
厳しいキリシタン取り締まりに島原・天草で
約4万人の農民が一揆を起こして、「全滅」した事を述べている。

この教科書を読んだ中学生は、
「救済者」達に対するなんと野蛮な宗教弾圧かと思うであろう。
しかし、なぜ家康は黙認から禁教へと方針を変えたのか、
については一言も説明がない。
秀吉も同様に、初めのうちはキリシタンを奨励していたのに、
急に宣教師追放令を出している。
いずれもキリシタン勢力から
国の独立を守ろうとする秀吉や家康の防衛政策なのである。

■5.日本準管区長コエリョの秀吉への申し出■

キリシタン宣教師の中で、
イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョは、最も行動的であった。
当時の日本は準管区であったので、
コエリョはイエズス会の日本での活動の最高責任者にあたる。

天正13(1585)年、コエリョは当時キリシタンに好意的であった
豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めた。
その際に、大友宗麟、有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、
秀吉に味方させようと約束した。
さらに秀吉が「日本を平定した後は、シナに渡るつもりだ」と述べると、
その時には2艘の船を提供しよう、と申し出た。
当時、日本には外航用の大艦を作る技術はなかったのである。

秀吉は、表面はコエリョの申し出に満足したように見せかけながらも、
イエズス会がそれほどの力を持っているなら、
メキシコやフィリピンのように、
我が国を侵略する野望を持っているのではないかと疑い始めた。

■6.コエリョの画策とバテレン追放令■

翌々年、天正15年(1587)に秀吉が九州平定のために博多に下ると、
コエリョは自ら作らせた平底の軍艦に乗って、
大提督のような格好をして出迎えた。
日本にはまったくない軍艦なので、秀吉の軍をおおいに驚かせたという。

その前に秀吉は九州を一巡し、キリシタン大名によって
無数の神社やお寺が焼かれているのを見て激怒していた。
秀吉は軍事力を誇示するコエリョに、
キリシタンの野望が事実であると確信し、
その日のうちに宣教師追放令を出した。

コエリョはただちに、有馬晴信のもとに走り、
キリシタン大名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。
そして自分は金と武器弾薬を提供すると約束し、軍需品を準備した。
しかし、この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。

コエリョは次の策として、2,3百人のスペイン兵の派兵があれば、
要塞を築いて、秀吉の武力から教界を守れると
フィリピンに要請したが、その能力がないと断られた。
コエリョの集めた武器弾薬は秘密裏に売却され、
これらの企ては秀吉に知られずに済んだ。
★「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎,p109-114

■7.秀吉のキリシタンとの対決■

秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あるが、
最近では、スペインやポルトガルのシナ征服への
対抗策であったという説が出されている。
スペインがメキシコやフィリピンのように明を征服したら、
その武力と大陸の経済力が結びついて、
次は元寇の時を上回る強力な大艦隊で日本を侵略してくるだろう。

そこで、はじめはコエリョの提案のように、スペインに船を出させ、
共同で明を征服して機先を制しよう、と考えた。
しかし、コエリョが逆に秀吉を恫喝するような態度に出たので、
独力での大陸征服に乗り出した。
その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、
朝鮮半島経由で行かざるをえなかったのである。

文禄3(1593)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに手紙を送り、
日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と脅している。
★★「国民の歴史」西尾幹二p372

慶長2(1597)年、秀吉は追放令に従わずに京都で布教活動を行っていた
フランシスコ会の宣教師と日本人信徒26名を
わざわざ長崎に連れて行って処刑した。
これはキリシタン勢力に対するデモンストレーションであった。
一方、イエズス会とマニラ総督府も、すかさずこの26人を聖人にする、
という対抗手段をとった。
丁々発止の外交戦である。

■8.天草をスペイン艦隊の基地に■

全国統一をほぼ完成した秀吉との対立が決定的になると、
キリシタン勢力の中では、布教を成功させるためには
軍事力に頼るべきだという意見が強く訴えられるようになった。
1590年から1605年頃まで、
15年間も日本にいたペドロ・デ・ラ・クルスは、
1599年2月25日付けで次のような手紙を、
イエズス会総会長に出している。
要点のみを記すと、
――――――――――
日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。
そこでもしも国王陛下が決意されるなら、
わが軍は大挙してこの国を襲うことが出来よう。
この地は島国なので、主としてその内の一島、
即ち下(JOG注:九州のこと)又は四国を包囲することは容易であろう。
そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、
さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを
奪うことも出来るであろう。・・・

このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、
その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。
このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。
なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、
また艦隊の航海にとって格好な位置にある。・・・

(日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設することの利点について)
日本人は、教俗(教会と政治と)共に
キリスト教的な統治を経験することになる。・・・
多くの日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、
子弟をスペイン人の間で育てることになるだろう。・・・

スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべきシナ征服のために、
非常にそれに向いた兵隊を安価に日本から調達することが出来る。
★「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎p147-150
――――――――――

キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そこを拠点にして、
通商と布教、そしてさらなる征服を進める、というのは、
すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。

また大村純忠は軍資金調達のために、
長崎の領地をイエズス会に寄進しており、
ここにスペインの艦隊が入るだけでクルスの計画は実現する。
秀吉はこの前年に亡くなっており、
キリシタンとの戦いは、徳川家康に引き継がれた。

■9.国家の独立を守る戦い■

家康が何よりも恐れていたのは、
秀吉の遺児秀頼が大のキリシタンびいきで、大阪城にこもって、
スペインの支援を受けて徳川と戦うという事態であった。
当時の大阪城内には、宣教師までいた。
大阪攻めに先立って、家康はキリシタン禁令を出し、
キリシタン大名の中心人物の高山右近をフィリピンに追放している。

1624年には江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じ、
さらに1637~38年のキリシタン勢力による島原の乱を
ようやく平定した翌39年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。
これは鎖国と言うより、朝鮮やオランダとの通商はその後も続けられたので、
正確にはキリシタン勢力との絶縁と言うべきである。
★★★「歴史に学ぶ」村松剛、「日本への回帰 第17集」

キリシタン宣教師達にとっては、学校や病院、孤児院を立てることと、
日本やシナを軍事征服し、神社仏閣を破壊して
唯一絶対のキリスト教を広めることは、
ともに「人類の救済者」としての疑いのない「善行」であった。
その独善性を見破った秀吉や家康の反キリシタン政策は、
国家の独立を守る戦いだった。
これが成功したからこそ、我が国はメキシコやフィリピンのように、
スペインの植民地とならずに済んだのである。

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プランテーション
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奴隷商人
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奴隷貿易
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アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行
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2008/07/09 09:00|年表リンク用資料
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