●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1884年、甲申政変(こうしんせいへん)
壬午政変の際に日本大使館に危害が及んだことに対する謝罪のため 日本に金玉均たちが派遣された。 彼らは発展した日本を見て、朝鮮も早く近代化しなければ 危ういと理解し、開国派に転じた。 このころ白人のアジア侵略は極東に及んでいた。 朝鮮が近代化しなければ南下を続けるロシアに奪われて 日本が危険にさらされる。 このため、日本は開国派を支援することになる。 福沢諭吉は金玉均たちの独立党を私財を投じて援助した。 福沢諭吉は漢城(ソウル)で朝鮮初の新聞を発行させたり、 朝鮮からの留学生を慶応義塾に受け入れ、金たちにも大金を貸して協力した。 1884年(明治17年)、清国とフランスの間で清仏戦争が始まると、 清国は朝鮮にいた兵士の多くをベトナムに送った。 その機会に乗じて、金玉均ら独立党の人々は、12月にクーデターを決行した。 金玉均らは日本の公使館守備隊の協力を得て、 国王親衛軍の一部によって6人の大臣を暗殺し、新政権を樹立した。 この独立党新政権は、清国からの独立、門閥廃止、宦官の廃止などを掲げた。 しかし、国王(高宗)や閔妃の事大党は清国に兵隊を送るよう要請、 これを受けて清国の袁世凱は1500名の軍隊を率いて軍事介入した。 当時、日本軍は漢城(現ソウル)に150名しかいなかった。 昌徳宮を挟んで両軍が対峙したが、日本軍はじりじりと包囲された。 竹添公使は本国から、日清間の前面衝突を避けるよう訓令を受けていた。 公使はこの危機を避けるために日本軍の引きあげを指示した。 日本軍から見放されたら開化党は皆殺しにされてしまう。 金玉均らは竹添公使に食ってかかった。 しかし劣勢を挽回することもできず、 公使はまたしても2年前の壬午軍乱の時と同じように 仁川を経由して逃げ帰った。 独立党新政権はつぶされ、クーデターは失敗に終わった。 壬午政変に続き、またしても清国が朝鮮の内政問題に介入したことになる。 しかもそのとき、壬午政変と同様、清国の軍隊は宮廷内にいた日本人を殺害 したばかりか、金玉均たちが日本公使館に逃げ込んだのを見て、 日本公使館も襲撃され、焼き払われ、婦人を含む多くの日本人が惨殺された。 これを甲申政変という。 金玉均や朴泳孝たちは日本に亡命した。 福沢諭吉はこの事件の後、「脱亜論」を唱え、 「悪友(支那や朝鮮)と交わるな」と言った。支那文明の下にとどまり、 近代社会へ参加しない清国と朝鮮に対する批判だった。 この事件を通して日本がつくづく分かったのは、 「朝鮮を独立させようと思えば、結局、清との対決は避けられない。」 という事実だった。 いくら朝鮮内部の開国派を支援しても、いつも最後は清が現れ、 近代化や独立の動きを封じ込めてしまうのではキリがない。 白人列強を侮る清国が朝鮮を支配下に置き、 事大派(攘夷派=外国人排斥派)が政権にいる状態が続けば、 近いうちに朝鮮は白人列強の植民地になってしまう。 そうなると日本も危うい。 ■1885年(明治18年)1月4日、日本と朝鮮との甲申政変の事後処理、漢城条約 国際紛争というものは、理非曲直よりも力の強弱によって左右される。 甲申事変の場合も、日本国内に情勢が伝わると、 国際威信を傷つけた重大問題として清国に対する強硬論が沸騰した。 日本政府は甲申事変の後始末のために、1885年(明治18年)1月4日、 井上馨が全権となって軍艦三隻で、仁川から漢城に乗り込んだ。 朝鮮側からは金弘集が全権となり、二日後に「漢城条約」を調印。 ・朝鮮国が国書を日本に送り、謝意を伝える。 ・日本人の被害者への損害補償として11万円を支払い、 公使邸再建工事費として2万円を支払う。 (福沢諭吉が「脱亜論」を書いたのは3月16日) ■1885年4月18日、日本と清国との甲申政変の事後処理、天津条約 伊藤博文は「日本と清国が争っているとロシアに得をさせるだけだ」と考え、 1885年4月18日、清国の李鴻章と天津条約を結んだ。 この条約は、次の3項目からなり、 この第3項をめぐって、9年後に日清戦争が起こることになる。 【1】日清両国は4ヵ月以内に朝鮮から撤兵する。 【2】今後、日清両国は、朝鮮軍を教育するための軍事顧問は派遣しない。 【3】もし朝鮮に重大な変乱が発生し、朝鮮に出兵する時は、 互いに、その旨を通告し、事が収まれば、ただちに撤兵する。 日本は条約どおり撤兵したが、 清国の軍人・袁世凱は帰国せず、密かに軍隊を数百人残したという。 清国は、日本の朝鮮への進出を邪魔するために 朝鮮に欧米各国と修好条約を結ばせた。 その際、一番問題だったのはロシアの朝鮮進出を招いたことであった。 有能なロシア公使ウェーバーは、 朝鮮におけるロシアの影響力を拡大し続けた。 反日史観での甲申政変は、 「日本の支援を受けた朝鮮の開国派が起こしたクーデーターに清国が介入し、 鎮圧したため、日清関係を悪化させた」 という点でしか語られていないため、この政変の真の意味がわからない。 ――― ・渡辺昇一の昭和史 ・日韓併合の真実 崔基鎬著 ・日韓共鳴二千年史 名越二荒之助 編著 ・日本人が知ってはならない歴史 若狭和朋著 ━━━━━━━━━━ ■韓国教科書では、 江華島条約が締結された後、朝鮮政府は開化政策を積極的に推し進めた。 まず、金綺秀(キムギス)はと金弘集(キムホンジブ)は 日本へ修信使として行き、日本の発展した姿を視察して、国王に報告した。 また、若い官吏で構成された紳士遊覧団は、 日本の財政・軍事・教育などの諸制度を視察してきた。 (中略) ・・・別枝軍は、日本から取り入れた武器を持ち、 日本人教官に新式軍事訓練を受けた。 (中略) 開化党の中心人物は、金玉均・朴泳孝・洪英植などであった。 彼らは日本に行き来しながら日本の発展した様子を見て、 我が国も改革を進めて、近代国家を作らなければならないと考えた。 このように韓国の教科書は、「日本の発展した姿を視察して」 「日本の発展した様子を見て」などと書いている。 しかし、その背後に朝鮮の近代化のために、 積極的な支援を惜しまなかった福沢諭吉などの日本人がいた事は、 口を閉ざして語ろうとはしない。 扶桑社の歴史教科書では、 「日本は、朝鮮の開国後、 その近代化を助けるべく軍制度の改革を援助した。」 「朝鮮が外国の支配に服さない自衛力のある近代国家になることは、 日本の安全にとっても重要だった」 と書いている。 すると、つぎのように指摘して修正を求めてくるのである。 「朝鮮に対する日本の影響力を植え付けようとした目的を隠し、 軍事援助で朝鮮の独立に寄与したかのように叙述する事で 事実をすり替えている」と。 韓国側は、朝鮮独立のために、明治初期に日本が本気になって 朝鮮を援助した事実を認めたくないようだ。 金玉均を「親日派」と書く事も不満らしく、 教科書では「開化党」で通している。 このような韓国の記述からは、近代化に貢献した日本の影響力は切り捨てて、 その成果だけを横取りして、あくまでも朝鮮人が主体であったように書く。 これは歴史事実の大きな歪曲であると言える。 ――― 韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する 勝岡寛治 著より |
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