正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1888年、露韓陸路通商条約

天津条約以後に、閔妃たちは清から逃れるためロシアに近づいた

甲申事変の後、1885年4月18日、日本と清とが締結した天津条約により
両国の軍隊が朝鮮から撤兵することになった。

これは李朝にとっても大きな収穫のように見えた。
清国にとっても独立党の敗退は日本の退潮とも見え、これまた収穫に思えた。

しかし、自体はまったく別の展開を見せるのである。
ロシアの登場である。

もともとロシアの朝鮮進出は、両国が通商条約を結んだことに始まるが、
この通商条約は清国が日本を牽制するために、
朝鮮を列強諸国に対し開港させたことに端を発している。

日本と清、両国の軍隊の撤退は、ロシアを大いに笑わせたのである。

李朝では清国の干渉を逃れるために、
密かにロシアに接近する構想が練られ始めていた。
1885年(明治17年)1月に、甲申事変の後始末のために
漢城条約の交渉が始まると、ウラジオストックに密使が派遣された。
策謀者はメレンドルフである。

メレンドルフは謝罪使として東京を訪れているが、
滞在期間の大部分をロシア公使館書記官スペールとの会談に費やしている。
メレンドルフは天津条約に言う朝鮮軍隊の訓練にあたる
第三国にロシアを当てようとしたのである。

彼は清国の顧問官であり、清国を裏切ったようではあるが、
清国もロシアを「利用」する気持ちを抱いていた。
それは清国へのロシアの圧力を
朝鮮経由で日本に充てようという以夷征夷に出ている。

メレンドルフの提案をスペールは受諾した。

ところが4月18日に天津条約が締結され、
日清両国以外から軍事教官を招くべきことが決められると、
李朝政府はアメリカから軍事教官を招くことを決定した。
6月に漢城に到着したスペールは違約を責めるが、
外務督弁・金充植は不知として相手にならない。

交渉は紛糾した。

こうした中で朝露密約(1885年)の存在が暴露された。
内容の要点は次のようである。
1、金玉均がウラジオストックに来ればロシアは逮捕して朝鮮政府に引き渡す。
2、日本への賠償金はロシアが日本勢力への影響力を行使する。
3、外国が朝鮮を攻撃するときはロシア軍が相手となる。
4、朝鮮の海軍の代行をロシアが担当する。

外務徳弁・金充植が嘘を言ったわけではない。
嘘を言ったのではなく、李朝内部の意見の分裂が露呈されたのである。

閔氏派の高官たちとメレンドルフが閔妃を動かして国王・高宗に働きかけ、
国王の内諾を得て、ロシアとの密約が結ばれていたわけである。

甲申事変後の朝鮮政府内では、閔氏派は清国への服属を嫌い、
もっと強大なロシア帝国の力に依存しようとする
別の事大主義が力を得ていた。

密約が発覚して、メレンドルフの立場は微妙になった。
さすがに李朝宮廷も彼を外務顧問の任から解いたが、
俸給は支払いつづけ、しかも彼は漢城に駐在を続けた。
李鴻章はメレンドルフの後任にアメリカ人を充て、
大院君も帰国させ李朝を制約しようとした。
しかし、朝鮮の親露傾向は、
清国の力をもってもどうしようもない域に達していた。

朝鮮半島はロシアのものになると列強は見始めた。
果然、イギリスが動いた。

1885年(明治18年)4月、
イギリス艦隊は朝鮮半島の南端の巨文島を占領した。
朝鮮海峡を扼するこの島は、
ロシア東洋艦隊の行動を同時に扼する位置を占めている。

ロシアはイギリスに抗議して、
巨文島の占領を続けるならば自国も朝鮮の一部を占領すると主張した。
イギリスは聞かずに、砲台構築を進めた。

英露交渉は2年間にわたったが、
清国の仲介で、ロシアは朝鮮を占領しないと宣言したことで、
そしてこれを清国が「保証する」という了解のもとで英国艦隊は去った。

この事件は、日本に深刻な影響を残した。
朝鮮へのロシアの南下がすぐに列強間の緊張をもたらす
現実を日本は直視した。
そして李朝政府がいかに無力であるか、を改めて認識させられたのである。
自国の運命が、外国勢力に好きなように左右されるのを見た
朝鮮国民のなかに、当然に危機意識を深める国民(志士)が増えた。

しかし、李朝の親露政策は強まる一方であった。

1888年(明治21年)、露韓陸路通商条約が結ばれ、
半島北東部の慶興にロシアの租借地が造られた。

朝鮮・ロシア通商条約
漢文。1888年に朝鮮とロシアの間に締結された通商に関する条約。
朝鮮側の代表、趙秉式(チョウ・ビョンシク)と
ロシア側の代表Veber,C.(べべプ)が締結した朝露陸路通商章程。

朝鮮は済物浦・圓山・釜山・京城の楊花津のほか、
咸鏡道の慶興をロシア人に開放し、商業上の特権を認めた。

また商品の密輸防止に関する規定、
無税品目、禁輸品目、関税に関する規定や
慶興における副領事館の設立、治外法権、租借権、
宗教の自由などに関する一般的な規制措置が盛り込まれている。

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日韓併合の真実 崔基鎬著 ビジネス社より
2010/02/08 06:00|年表リンク用資料
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