正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1895年(明治18年)4月23日、三国干渉

1895年(明治18年)、日清戦争勝利後の戦後処理の下関条約で、
日本は遼東半島を割譲されたが、
清国は西洋列強の力を使って日本を追い出そうとした。

支那伝統の以夷制夷であるが、
これがいかに馬鹿げたことであるかを清国は
後に思い知らされることになるが、
清のこの愚かな行為によって日本もひどい目に合うことになる。

下関条約(4月17日)が締結されてから一週間もたたない4月23日、
日本に永久割譲された遼東半島、台湾全島、澎湖諸島のうちで、
遼東半島を放棄せよ、とロシア・フランス・ドイツが勧告してきた。

清国が三国に泣きついて、条約を反故にしようと企んだ結果である。
三国にはいかなる報酬を与えてもいいから、
隣国の日本だけは抑えたいという気持ちだった。

ここでロシアの表明した理由は
「遼東半島を日本が所有することは清国の都を危うくするのみならず、
朝鮮の独立を有名無実とするもので、
右は極東永久の平和に障害を与えるものである」というものであった。

もちろんそんなのはウソっぱちで、
本当の理由は「満州を奪いたいロシアにとっては、
遼東半島が日本に割譲されるのは困る」であることは明白だった。

実際、3年後の1898(明治31)年、ロシアは遼東半島を租借地として獲得する。
さらに、ドイツは膠州湾を、フランスは広州湾を租借したのである。

日本にとってはまったく理不尽な要求で国民は総じて拒否の意思を示した。
しかし開国してまだ30年も経たない小国としては
ロシア・フランス・ドイツという当時の大国(列強)に
どうすることもできない。

また、総理大臣の伊藤博文は、
日清戦争の終わる前からロシアが戦艦をはじめとして大型巡洋艦数そうを
ウラジオストックに配備し、これにドイツ東洋艦隊、フランス東洋艦隊が
加わって、三国連合艦隊が結成されているという情報を得ていた。

つまり三国干渉をおこなったときは、
すでに日本と戦争しても十分勝てる準備が完了していたのだ。
日本は、泣く泣く遼東半島を清国に還付することにした。
日本の政治家たちは、どうしようもないことだとあきらめたが、
国民は政府の弱腰に憤慨した。
この国民の怒りを抑えるために、
明治天皇はわざわざ「遼東還付の詔勅」を出して、国民の自制を求めた。

この三国干渉で日本の受けたダメージは大きかった。
朝鮮問題もそうだが、遼東半島還付を境にして清国が
坂道を転がり落ちるように衰退し、東アジアに危機的状況をもたらした。
その始まりは、ロシアが清国と密約を結んだことである。

●1896年6月3日、露清密約

日清戦争の翌1896年、ロシアと清国の間で秘密条約が結ばれていた。
主要な内容は以下の通り。

・ロシアあるいは清国、朝鮮が日本と戦争になった場合、
露清両国は相互援助する。

・その場合、清国はロシアの輸送を助けるため、
満州での鉄道建設に同意する。

・その鉄道は、ロシアが軍用として自由に使うことができる。

要するに日本と戦争が起こったらロシアと清国が共同して戦うことの他に、
ロシア軍隊を極東へ輸送するため、
シベリア鉄道とウラジオストックを結ぶ満洲横断鉄道(東支鉄道)の
建設を定めていた。

この鉄道の建設許可は重大な問題をはらんでいた。
この鉄道の存在が満州統治につながりかねないものだが、
その上に、ロシアが軍用として自由に使えるという
取り決めもなされたからだ。

この鉄道は、やがてロシアの満洲侵入を助け、
日露戦争を誘発することになる。

まったく日本を敵視した密約だが、日本がこの密約を知ったのは
1921年(大正10年)のワシントン会議においてであった。

日露戦争当時にこんな密約があるのを知っていれば、
戦争に勝った日本は清国に迫って南満洲全域の割譲を要求することができた。
そうすればその後の満州に関する問題は一切発生しなかった。
日本が日露戦争に費やした20億円の莫大な負債は、
満州事変当時、まだ返済しつつあったのだ。

この密約の存在を知らなかった日本は、
満州全体をロシアから清国に取り返してやって、
鉄道の権利と遼東半島(関東州)の権利だけを租借したわけだ。

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日清戦争勃発
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清国軍の暴状
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1894年(明治27年)11月21~22日、いわゆる「旅順虐殺事件」
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日清戦争の意義を理解しない韓国
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三国干渉
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三国干渉の2年後、西洋列強によるあからさまな清国の利権争奪が始まった。
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2010/01/31 06:00|年表リンク用資料
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