正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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「日本の教育あったから今の私がいる」…台湾の元師範学校生が語る
産経ニュース 2009.8.14 22:08

日本統治時代の「負」の部分をことさらに強調して
取り上げたNHKスペシャル「JAPANデビュー アジアの“一等国”」
(4月5日放送)に台湾からも批判が出る中、
戦時中に台中師範学校で学んだ台湾人から、
日本に感謝する声が上がっている。
「日本人」として入学し、終戦直後に卒業を迎えるなど、
時代に翻弄(ほんろう)された世代だが、
「日本の教育があったから今の私がいる」と感謝の念を送っている。

「あの時代の日本人による教育は、人としての品格を向上させたと思う。
私の財産といえます」

流暢(りゅうちょう)な日本語で語るのは、
台湾総督府立台中師範学校第三期入学生の
林(りん)永隆(えいりゅう)さん(85)だ。
「日本でも台湾でも、
若い世代があんな教育を受ける機会はもうないだろう」と振り返る。

昭和14年に入学した林さんの同窓生は40人。
日本人26人、台湾人14人だったという。
2000人の受験生から選抜された“若きエリート”だった。

午前6時の起床ラッパから始まり国語、漢文、英語とみっちり仕込まれた。
「『平家物語』を暗記するなどして、
日本のことや日本語をたたき込まれた。
日本文学には今の日本のみなさんより精通しているかもしれませんよ」
と林さんは笑う。

もちろん苦しいときもあった。
何十メートルも先を歩いている先輩を素早く見つけて、
直立で礼をしなければならない。忘れると鉄拳が飛ぶこともあった。
上下関係は特に厳しかった。
「でもそうした経験も、今では良かったと思う」(林さん)。

林さんらは「伊吹会」という同窓会を作り、筆の取れるうちにと、
数年前に師範学校での生活などを日本語で小冊子にまとめた。

《学寮でははしの上げ下ろしから歩き方、
口の開き方まで事細かくしつけられた》
《戦局は緊急を告げていたが、楽しい青春時代だった》…。
授業の様子や思い出がつづられている。
《当時、英語は100点満点の2点。
戦争がエスカレートして敵性語の英語が廃止され、落第が免れホッとした》
という“率直な”記述もある。

日本の台湾統治時代をめぐって、NHKは番組で、
日台間の格差と同化という矛盾を抱え、
やがて皇民化運動で日本文化を強制したと放送。
視聴者約1万人が損害賠償を求める訴えを起こしている。

そうした「強制」を受けたという気持ちは林さんにはない。
「今も思いだす歌は『荒城の月』や『はとぽっぽ』ですが、
嫌だったという思い出はありません。
同級生とも仲が良かった。日本人の先生は人格者が多かった」
と振り返る。

林さんは、司馬遼太郎の『街道をゆく』を日本語で全巻読破。
今でも日本に親しみを感じている。
「日本の教育を受けたことは誇り。
死ぬまで日本を忘れることはないでしょう」と話している。(森浩)

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「日本精神は誠の精神。当時の日本軍人はまっすぐで正しかった」

産経ニュース 2009年7月15日
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090715/chn0907150343000-n1.htm

【東亜春秋】台北支局長・山本勲 最も日本を愛した台湾人

台湾「高砂義勇兵」戦没者の記念碑再建に尽力し、
先月28日に亡くなった簡福源(民族名タリ・ワタン)さんの葬儀が昨日、
台北県烏来(ウライ)郷でしめやかに行われた。

生前の簡さんの口癖は「自分が今日あるのは日本のおかげ」だった。
親日家が多い台湾でも誰よりも日本を愛した簡さんに
感謝と哀悼の意をささげる一方、明日の日台関係を築くわれわれ戦後世代の
責任の重さを痛感させられた一日だった。

簡さんは1931年6月30日、日本植民地時代の烏来郷の
先住民(日本時代は高砂族と総称)タイヤル族の部族長家に生まれた。
日本名は「山田正太郎」、6歳から日本教育を受け、
太平洋戦争では少年志願兵として飛来する米軍機を監視した。

日本軍が組織した先住民部隊、高砂義勇兵(6千~8千人)として
ニューギニアで戦死した叔父のあだ討ちをするつもりだった。
学校と軍隊で日本精神をたたき込まれた。
「日本精神は誠の精神。当時の日本軍人はまっすぐで正しかった」(簡さん)

しかし敗戦で日本兵が一斉に日本に帰り、
「なぜ僕らも帰らないのとおじいさんに聞くと、
『内地の人とは違う』と言われた」
「ああ僕は日本人じゃなかったのか」と初めて実感した。
簡さんはこの思い出を語るたび涙ぐんだ。それほど日本人意識が強かった。

戦後、台湾を統治した蒋介石・国民党政権は徹底的な日本否定を行った。
しかし簡さんは日本教育をバネに台湾最年少の県議会議員に当選、
烏来郷長を2期務めるなど地元の有力者として活躍を続けた。

日本の桜3千本を烏来に移植したり、
九州の姉妹都市との交流などで日本を20回以上訪れたりし、
日台の民間交流に努めた。

だが簡さんの最大の苦難は晩年に突然やってきた。
タイヤル族の長でおばの周麗梅さんを中心に、
92年に烏来に建立した高砂義勇兵記念碑が
撤去の危機を迎えたのが発端だった。

記念碑の敷地を提供していた観光会社が2003年の
新型肺炎(SARS)流行で倒産、
翌年には記念碑を移設せざるを得ない事態に追い込まれたためだ。

「周さんはすでに亡く、長男の邱克平(マカイ・リムイ)さんや
おいの簡さんが対応に苦慮している」との産経新聞報道を機に、
日本から3千万円を超える義援金が寄せられた。

06年2月、この資金をもとに台北県から提供された県有地に
やっと移設を終えると、今度は親中国系紙、「中国時報」が
県有地は「日本に占拠された」と報道。

連動するように新任の周錫●県長(国民党籍)が、
日本の遺族団体などが寄贈した石碑(8基)を
「天皇称賛の誤った歴史認識が含まれている」として撤去、
記念碑の碑文まで竹で囲って封印した。

「日本の皆さんになんとおわびしたらいいのか」。
簡さんは事件後、現地を訪れた日本人関係者にこう謝る一方、
原状復帰を求める法廷闘争に全力を挙げた。

そのかいあってこの3月24日、
台湾高等行政法院が台北県の撤去処分に対する撤回命令を出し、
事件はようやく本格解決に動き始めた。

それから3カ月、簡さんは肩の荷をおろすように亡くなった。
「3年間の心労が簡さんの健康を大きく損なった」
と語るのは法廷闘争を全面支援した黄智慧・中央研究院所員。

誰よりも日本を愛し日台交流に尽くした簡さんの後継者が
双方から澎湃(ほうはい)と登場するよう願ってやまない。

●=王へんに韋

日本と台湾 ~ ともに歩んだ50年(1895~1945)
http://www.youtube.com/watch?v=HrR3Yd_YLZE
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18327199
2010/01/24 06:00|年表リンク用資料
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