●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
『義和団の乱(北清事変)(中国では庚子事変という)』
1900年、山東省で外国人を襲撃する外国排斥運動が起こりました。 乱はたちまち全土に広がり、外国人にとって、 さながら地獄図のような光景が眼前で繰り広げられていたのです。 この時、清国政府は何もせず、逆に彼らを応援していました。 それどころか、義和団の勢いが良いと見るや、 義和団に味方し参戦したのです。 このままでは皆殺しになります。 そこで義和団鎮圧のために列強8ヵ国による連合軍が出動しました。 軍を派遣した8ヵ国の内訳は イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、 オーストリア(=ハンガリー)と日本です。 総司令官にはドイツ人のガスリーが就任しました。 約2ヵ月後、8ヵ国の連合軍は首都北京及び紫禁城を制圧し、 乱を鎮圧しました。 ※ちなみに北京を占領した連合軍は各所で略奪を開始し、 頤和園も略奪と破壊の対象になりましたが、 日本軍だけは略奪に参加しなかった話は有名です。 北清事変_義和団の乱_列強8ヵ国の兵士 ![]() 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 『私たちの美しい日の丸・君が代』 石井公一郎・高橋史郎 著より引用 日の丸エピソード6 中国人が掲げた日本軍への感謝の「日の丸」 明治32年(1889年)の義和団事件。 1900年4月には北京へ入り、列国の外交官らが襲われ、 4000人が包囲され脱出出来なくなった。 列国は日本軍を中心に8ヵ国連合軍を結成し、救出。 日本軍は勇敢に闘い、かつ、国際法を守り、捕虜や民間人を手厚く保護した。 他国の軍隊は、 中国人に対して略奪や放火、殺人を繰り返したが日本軍は皆無。 北京市長はロシア区域の残虐行為にたまりかね、 英国公使にロシア地区を日本の管轄に変えて欲しいと訴えたほどだった。 このとき、天津の中国人は 「大日本順民」と描いた日の丸を掲げて日本軍へ感謝した。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 ――――――― ◆以下重要◆ 日本軍が中国に駐留していた理由は、 『義和団の乱』後の戦闘事後処理の 『北京議定書』=『北清議定書』に基づいて駐留していた。 ――――――― この乱の平定後の1901年9月7日に北京で調印された義和団の乱における 列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する 最終議定書の『北京議定書』に基づき、 列強各国に自国民の保護の為に中国への駐兵権が与えられました。 日本軍が中国に駐留していたのは、そういう理由からです。 別に日本軍だけがいたわけではありません。 イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、 オーストリア(=ハンガリー)など出兵した8ヵ国と、 ベルギー、スペイン、オランダを含めた11カ国の欧米列強は皆いました。 この後、辛亥革命で清国が滅びますと、 中国は群雄割拠の時代となり、統一政府は無くなりました。 そうすると、軍閥があちこちで勝手な事をし、 住民からは勝手に税を取り立て、 若者を勝手に兵にとり、あちこちで略奪、殺戮を 繰り返すようになったのです。 そのような状況では、どこにも治安の維持は頼めません。 外国人は自国の居留民は自国の軍隊で護るしかなくなったのです。 中国では、昔から都市に軍隊が入ってくると、 略奪、放火、強姦、殺戮が行われていましたので、 各国の駐留軍はそれを防ぎ、あわせて中国人をも保護していたわけです。 中国では租界の中だけが平和で、文化的な世界だったのです。 しかしこれは中国の各軍閥にとっては腹立たしいものでした。 なにしろそこに逃げ込んだ中国人からは税を徴収できませんし、 なによりそこは彼らの力の及ばない所だったからです。 彼らは、何とかして、外国人の支配する租界を破壊し、 彼らの好む治安の悪い世界へと引きずりおろそうと画策しました。 その為、彼らは外国人への悪宣伝を流し 中国人が外国人を憎むように仕向けたのです。 その結果、租界などで反外国デモやストライキなどが 頻発するようになります。 この為、各国駐留軍は自国民の安全を守るために 余計にも警戒せざるを得なくなりました。 この外国人への悪宣伝は最初は欧米人が主でしたが、 次第に、日本へとシフトして来ます。 白人と日本人との間を分断して、 日本人だけを叩いた方が効率がいいからです。 日本人を攻撃しても、白人は知らん顔をするからです。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 義和団事変 1899年(明治22年)、宗教的秘密結社である義和団が、 「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼす)」 というスローガンを掲げて、山東省で蜂起した。 義和団とは義和拳という武術をマスターすれば鉄砲も刀も怖くないという迷信 を持った人々の集団で、暴動は清国全体に広まった。 (「義和団事変」「拳匪の乱」「ボクサー・レベリオン」ともいう)。 翌1900年(明治23年)になると、暴動集団はキリスト教徒を殺害し、 教会、鉄道、電線など西洋伝来のものを破壊し、北京にまで至った。 当時、清国の実権を握っていた西大后は義和団の味方となり、 清国軍を派遣して北京の公使館や天津の租界を攻撃させた。 そして清国は北京に公使館を置く列国に宣戦布告を行なった。 これにより北京では公使館のある区域が義和団に包囲され、 そこにいた8ヶ国の人たちが皆殺しされる危険が迫った。 そこで8ヶ国は団結して連合軍を作り、 義和団の大軍に合同で立ち向かうこととなった。 日本はたった25人の軍人しかいなかったが、 柴五郎中佐が率いて抜群の働きをした。 他の国の兵士は怖がってなかなか戦わなかった。 日本は各国から地理的に最も近いという理由で 本国から応援部隊を出すよう要請されたが、 野心があると思われるのを避けるため応じなかった。 しかし、再三イギリスなどから要請され、 福島安正少将が混成三個大隊を率いて天津に来た。 日本軍の活躍で連合軍は天津を占領することができた。 その後、連合軍は日本軍を主力として北京に進軍、 8月14日に北京の公使館を包囲していた義和団と清国兵を駆逐し、 公使館区域の外交官や居留民を救出することに成功した。 その後、連合軍は国ごとに分かれて北京を占領した。 ロシアは義和団の乱が支那から満州にまで及んだときに 増派してついには全満州を占領してしまった。 この乱につけ込んでロシアは満州をロシア領にしてしまったのだ。 しかし、清国はロシアを満州から追い払う努力は一切しなかった (満州からロシアの勢力を追い払ったのは その後の日露戦争に勝利する日本である)。 もし日本が日露戦争で勝利しなかったら、 (宣統帝溥儀の家庭教師だったレジナルド・ジョンストンが言うように) 遼東半島のみならず、満州全土も、その名前までも、 ロシアの一部となっていたことはまったく疑う余地のないことだった。 当時の戦争では軍隊は市民から略奪、強姦するのが当たり前で、 北京や上海でも列国による略奪が頻発していた。 白人で一番まともなイギリス兵ですら支那人から貴重品をかっぱらっていた。 しかし日本軍だけはそういったことにいっさい手を染めなかった。 日本の占領地域だけは軍規厳正で、治安維持が特に優れていた。 ロシアの占領地区ではロシア兵が虐殺や放火、強姦をやりまくり、 日本の占領地区に逃げ出す支那人が大勢いた。 北京とは遠く離れた所でもロシアは大虐殺を行なっていた。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 『義和団の乱』の日記 『ベルギー公使夫人の明治日記』 エリアノーラ・メアリー・ダヌタン著 1900年[明治33年]5月25日 公使館の書記官メイ氏が北京から戻ってきた。 彼の話によると現地は非常に不穏な状態にあるという。 1900年[明治33年]6月14日 清国における事態はますます深刻になってきた。 英国軍、ロシア軍およびフランス軍は、 英国の提督サー・エドワード・シーモアの指揮の下に海兵隊を上陸させ、 北京の公使館保護のため進軍している。 技術者の一行が義和団によって殺害されたという噂があり、 死者の中に四人のベルギー人がいるという。 今や清国政府が暴徒に味方しているのは間違いないようだ。 1900年[明治33年]6月16日 北京の外交団の運命について重大な懸念がある。 サー・E・シーモアの1400名から成る小部隊は、 北京と天津の中間で、連絡を遮断されている。 義和団が片側に、正規軍がもう一方の側にいて、 10日以来北京から何のニュースもない。 公使館が焼け落ちて、住人は命からがら逃げ出したというような、 あらゆる種類の無責任な噂が飛び交っているが、 信頼すべきニュースは入手できない。 1900年[明治33年]6月17日 ミサに行って、北京に閉じ込められている可哀そうな人たちのために、 心を籠めてお祈りをした。北京は包囲状態で、いまだに何のニュースもない。 各国の戦艦が救援に向かっているが、 河を遡れるのは、喫水の浅い小型砲艦だけである。 北京でドイツ公使が殺されたという電報が届いたが、それは信用できないし、 他の恐ろしい色々な噂、例えば公使館が焼かれたという噂や、 北京にいる外国の居住者が殺されたという噂も同様に信用ができない。 1900年[明治33年]6月18日 アルベールと一緒に葉山のキー夫妻の家で一日を過ごすために出かけた。 キー氏はアメリカ公使館付の海軍武官である。 キー夫人の妹、コンディット・スミス嬢は私たちの親友だが、 数週間前に北京へ遊覧旅行のため出かけて、 そこのアメリカ公使館に閉じ込められている。 キー夫人は明らかに妹が恐ろしい危険に 曝されていることにまだ気がついていない。 コンディット・スミス嬢は北京のアメリカ公使館一等書記官の妻、 スクワイアズ夫人と一緒に北京から七マイル離れた避暑地西山にいたのだが、 そこから三マイルしか離れていない隣村は完全に焼かれてしまった。 二人の婦人は真夜中に起されて、 北京から護送のため派遣されたコサック兵に守られて、 命がけで避難したのである。 翌朝、彼女たちが泊まっていた家と英国公使館の夏の別荘は、 共に義和団によって焼打ちされた。 この2人の無力な婦人たちを襲ったかも知れない運命のことを考えると、 身の毛のよだつ思いがする。 1900年[明治33年]6月19日 当地における不安はますます募り、気違いじみたものになりつつある。 遂に日本は大量の援軍を送ることに決定した。 清国軍が何の警告もせずに、 大沽の砲台から軍艦に砲撃を開始したというニュースが入った。 しかしそこの砲台は結局連合軍が占領した。 ロシア軍が一番苦戦したが、清国兵四百人を殺害した。 英国の砲艦が一隻と、同じくドイツの砲艦一隻が沈没したという噂がある。 大沽の砲台に最初に突入したのは日本軍である。 それは日本軍と英国軍との先陣争いであった。 日本の服部大佐は砲台攻撃に際し クラドック大佐を勇敢に補佐したが、勝利の瞬間に戦死した。 (日本兵の先頭は服部雄吉中佐で、敵の堡塁に登り、 英艦あらクリティー号艦長クラドック大佐の手を執らんとしたとき、 敵弾に当って即死した) 1900年[明治33年]6月20日 北京あるいはシーモアの軍隊についてまだ何も情報がない。 一体彼らに何が起こっているのか全く不可解である。神のみぞ知る。 逃げのびた技術者に関する詳細が新聞にのっているが、 そのうち数人はベルギー人で、殺された者が何人かいる。 4人だと思われる。 その他の者は最終的に救助されたが、 負傷がひどく、手足を切断されている。 30人からなるこの一行には多数の婦人も含まれていたが、 それに対して義和団の人数は4000人にも達した。 1900年[明治33年]6月22日 英国公使館のホワイトヘッド氏を通じて恐ろしいニュースを聞いた。 彼は大沽の上級海軍士官から電報を受け取った。 それによると清国北部全体が武装状態になり、 天津を発した先遣部隊は分断された。 シーモア提督についてのニュースはなく、 同じ北京にいる不運な人たちの運命についても何もニュースがない。 アルベールは公使館で午後四時に外交団代表全員の会議を開いた。 1900年[明治33年]6月23日 新任のロシア公使イズヴォルスキー氏とその夫人が来訪した。 夫人は可愛い洒落た感じの人で、とても快活だった。 天津が全焼し、外国人居留地の全員150人の西洋人が 虐殺されたというニュースが届いた。 この恐ろしいニュースは一体本当なのだろうか。 1900年[明治33年]6月28日 清国筋を通じて、外交団が24時間以内に 北京から退去を命ぜられたというニュースを受け取る。 どこへ行くのかは誰も知らないらしい。 夜になって送られてきた他の電報によると、 彼らは25日現在ではまだ無事で北京にいるという。 どちらを信じたらよいのか? これらの電報は日本の外務省から直接アルベールに送られたものであるから、 私たちはすぐにニュースを知ることができた。 1900年[明治33年]7月2日 恐ろしいニュースがもたらされた。 ドイツ公使フォン・ケテラー男爵が先月13日に総理衙門へ行く途中、 清国兵によって殺されたというのだ。 ある報道によると彼の遺体は総理衙門へ運びこまれたが、 総理衙門も焼打ちに遭い、そのあと遺体は北京市中を引き回されたという。 可哀そうな彼の若い妻!彼女のことを思うと心が痛む。 夫を失った驚愕と悲劇を乗り切るのは 彼女にとってどれほど辛いことだろうかと私は心の中で思った。 1900年[明治33年]7月4日 ドイツ皇帝が非常に好戦的な演説をした。 彼はフォン・ケテラーの死に復讐することを誓い、 ドイツの国旗が他の国の国旗と共に、 北京の丘の上に翻る日までは決して気を休めないと言明している。 1900年[明治33年]7月7日 日本は遂に2万人の軍隊を送るという話である。 現在何も手のつけようがないし、もし彼らが既に虐殺されていないとしても、 それは日にちの問題、あるいは時間の問題だということは誰もが思っている。 清国軍は大砲を据え付けて英国公使館を砲撃している。 ある電報によれば、公使館で火事が発生しているという。 1900年[明治33年]7月14日 上海で発行されていつも情報をたくさんのせているオーストリアの新聞に、 外交団、宣教師、税関職員の全員が7月1日に虐殺されたことは 疑いの余地が無いという記事が出でているそうだ。 ローマ・カトリックの大司教ファヴィエ師は首を切られ (実際は数千のキリスト教民と教会に立て籠もり二ヶ月間持ち堪えた)、 その他の宣教師は全員残酷にも手足を切断されたという。 私たちの最も恐れていた事態が 現実のものとなりつつあることを憂慮せざるを得ない。 可哀そうな包囲された人たちが最後の時がくるまで 耐えたであろう苦難の詳しい事実は、決して知ることができないだろう。 清国筋から東京へ届いた電報によると、 外国人の状況は「極めて危殆に瀕している」という。 明らかにこれは彼らが2週間前に既に知っている事実を、 私たちに報せるための準備である。 神よ、彼らの魂に慈悲を垂れたまえ! 私の心はひどく痛む。もうこれ以上書けない。 1900年[明治33年]7月20日 英国公使館付海軍武官のオトリー海軍大佐が 中禅寺へ行く途中、日光に立ち寄った。 彼は広島から日本の軍隊が出発するのを目撃したが、 あらゆる作業がすばらしい組織力と 非常な迅速さで行われたことに、大変驚いていた。 彼の話では、たった48時間で、 商船が1000人の兵隊と500頭の馬を収容できる輸送船に改装されたという。 1900年[明治33年]7月22日 アルベールは北京へ行く途中、 上海で足止めされていた公使館の前書記官ド・カルティエ氏から、 外交団はまだ無事でいるという電報を受取った。 その後で彼はアメリカ公使バック氏からもう一通の電報を受取ったが、 それによると北京のアメリカ公使コンガー氏が18日に ワシントンへ電報を送ることに成功し、 彼らはまだ持ちこたえていると報せてきたそうだ。 本当に嬉しいニュースである。 1900年[明治33年]7月25日 天津から避難してきたデトリング一家と知り合いになった。 彼らは素敵な家族で、 一家は母親と2人の成人した娘と2人の子供で構成されている。 彼らは天津で砲撃が続いている間、地下室で一週間過ごしたが、 米とじゃが芋だけを食料とし、その間中、着のみ着のままで過ごした。 とうとうデトリング夫人と小さな娘の1人が熱を出したので、 少しばかり新鮮な空気を吸おうと、 砲弾が破裂し、鉄砲の玉が飛び交う街の中へあえて出てみた。 さらに逃げてきた元の家にも行ってみた。 ・・・略・・・ 天津では援軍が到着しないし、弾薬は一日分しかなくなったので、 婦人や子供たちを清国軍の手に渡すよりも、 射殺すべきだとの決定がなされた。 デトリング夫人は夫が非常に悲しそうな顔をしているのを見て、 とうとうどんな計画があるのか夫から聞き出すのに成功した。 彼女がそれを娘たちに話すと、娘たちはみんな覚悟していると答えた。 遂に弾薬が尽きようとするきわどい時になって、 援軍が到着し、最後の必死の応戦のあとで彼らは救われた。 そして婦女子は全員天津を離れるよう命令された。 デトリング嬢の話では、その後も川を下るときに方々の村から 銃撃や砲撃があったので、非常に危険な状態だったそうだ。 1900年[明治33年]7月31日 次に記すのは北京駐在日本公使西徳ニ郎男爵の 7月19日付の報告書のコピーである。 それは何か不思議な手段で送られ、25日に天津に到着した。 「清国兵の絶え間ない攻撃に対して、我々は依然として防御を続けている。 それは決してたやすい仕事ではないが、今月末に援軍が到着するまで、 おそらく持ちこたえることができるだろう。 清国軍は17日以来発砲をやめている。 清国の当局は交渉を開始しようと思っているらしい」 1900年[明治33年]8月5日 昼食のとき大きな地震があった。北京から再び悪いニュースがくる。 北京駐在のアメリカ公使コンガー氏が7月31日付のメッセージを寄越して、 弾薬がほとんど尽きかけているという。 天津にあれだけの軍隊がいると思うと本当に腹立たしい。 いまだに前進の可能性がないのだ。ベルツ氏が当地にきた。 彼の話によると、サー・アーネスト・サトウが 賜暇を切り上げて大至急帰ってくるという。 1900年[明治33年]8月8日 外交団が清国兵に護衛されて北京を 離れることを断ったというニュースが届いた。 1900年[明治33年]8月10日 北京駐在日本公使の西男爵から8月4日付のメッセージが届いた。 それによると事態は変わっていないが、 天津へ護送するという清国の申し出を受けないとの決定に全員が賛成し、 救援を待っているところだという。 救援隊はやっと出発したが、途中で既に大きな戦闘があった。 聞くところでは連合軍の1000人の兵士が殺されたという。 これは恐るべき割合である。 1900年[明治33年]8月13日 三宮夫妻と昼食をする。 グラヴァー氏が中禅寺の渓流で釣った立派な鱒を三匹届けてくれたので、 その中の2匹をティール家に分けてあげた。 1900年[明治33年]8月15日 連合軍は北京へ近づきつつある。 私たちの不安はますますひどくなり、一体西洋人は生きて発見されるのか、 既に虐殺されているのか、疑問に思っている。 清国筋からくる色々な情報は全く信用できないので、 私たちはみんな強い疑惑を抱いている。 この事件のこと以外に何も話すことができず、考えることすらできない。 1900年[明治33年]8月17日 2日前にサー・アーネスト・サトウから 9月に急いで戻ってくるという手紙を受取った。 私たち自身の賜暇はとれるかどうか疑問になってきた。 10月6日の出発は難しいかも知れない。 アルベールから電報で、日本領事からの電報によると 連合軍は15日に北京へ総攻撃をかけたと報せてきた。 今度こそ全く心配で心配でならない。 包囲された人々は救助されるのか、あるいは虐殺されて見つかるのか? フランス公使のアルマン氏とホワイトヘッド氏が中禅寺からの帰途、 私のところへ立ち寄って昼食をした。 彼らはアルベールからのと同じ電報を私に見せた。 1900年[明治33年]8月18日 恐ろしい不安も遂に終りを告げた。 午後2時にアルベールから、連合軍は北京に入り、 公使やその部下たちは無事に生きていたことが判明したという電報がきた。 この本等に嬉しいニュースに対し、神に感謝を捧げる。 2ヵ月にわたる監禁と恐ろしい危険の末に無事だったのだ! もっと詳しい情報が待ち遠しい。アルベールは明日の早い急行で戻ってくる。 イズヴォルスキー氏が七時頃現れた。 彼はそのまま残って、私と夕食を共にした。ティール夫人も一緒だった。 私たちはこの重大なニュースを祝って、シャンパンの栓を抜いた。 1900年[明治33年]9月8日 日本の軍隊が北京へ危険な進撃をしたときに同行した 英国公使館付武官のチャーチル大佐がお茶の頃に来訪して、 私たちと2時間ほど話をした。 彼は北京の救援について大変面白い話をしてくれた。 彼の話によると北京は惨憺たる状態にあり、 公使館前の通りはまさに廃墟と化しているそうだ。 ・・・略・・・ 北京に向かっての進撃と数回の戦闘は、目覚しい出来事であった。 チャーチル大佐は日本軍の勇気と組織力を非常に賞賛していた。 清国軍は公使館からたったの50ヤードしか離れていなかったのに、 彼らの砲撃は目標のとり方が極めて下手で、 ほとんどの砲弾は公使館の頭上を越えていった。 哀れな籠城者たちが一番に悩まされたのは、 城壁のすぐ外側に放置されていた清国兵と 軍馬の腐敗した死体から発する悪臭であった。 腐敗した清国兵の死体が北京中至る遜に横たわり、 犬がそれをむさぼり食っていた。 もちろん、子供たちもひどく健康を害し、 籠城中に6人が死亡、救出後間もなく3人が死んだ。 著名な日本の将校の柴五郎陸軍大佐は、その勇気と先見の明によって、 他の誰よりも北京を守るのに功があったという話であった。 その当時一番大きな働きをした人間に贈るために、 教皇からダイヤモンドの指輪が送られてきたが、 ファヴィエ大司教はこの貴重な印を直ちに柴大佐に贈呈したのである。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 『大東亜戦争の精神』 黄文雄 光文社 1995年 119頁 義和団事件において、略奪を硬く禁じた秋山好古大佐。 「本国に持ち帰りを許可するものは、 戦闘により入手した敵の武器・銃・刀・槍・弓のみである。 これは子孫に武勇を伝える戦争の記念品であるからで、 他のものは一切禁止する。」 ――――――― 秋山好古(1859年2月9日~1930年11月4日) 伊予松山出身の元武士。父は松山藩士。 近衛師団長・陸軍大将・陸軍教育総監を歴任。 義和団事件では第五師団の兵站監として出征し、 乱の平定後に清国駐屯軍司令官として勤務。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 『捏造された日本史』 黄文雄 日本文芸社 1997年 44~45頁 義和団による社会の混乱が起きていた最中、 一人の日本の軍人が北京駐在武官として滞在していた。 彼の名は柴五郎、維新後の日本史を飾る代表的な明治の軍人である。 義和団事件はやがて満州にまで飛び火し、 ロシア人が殺傷される事件も起きた。 ロシアはそれを口実に満州占領へと乗り出した。 ロシア軍は怒涛のように満州に流れ込むと、 街を焼き、略奪し、虐殺し、市民の生活を脅かした。 清国北方の治安は大きく乱れた。 このとき何よりも怖いのはロシア兵はもとより、清軍の敗残兵だった。 兵士が市民から略奪するのは中国伝統の戦争文化とも呼ぶべき慣習で、 兵隊とは市民に乱暴狼藉をはたらくものということが常識となっていた。 ところが北京に入城した日本軍はその常識を破ったのである。 軍紀は厳しく、末端の兵士にいたるまで非行をすることがなかった。 この様子は北京市民にとって有史以来初めて目にする光景だった。 これは噂となってたちまち北京市民に知られ 市民は布や紙に「日本順民」と書いて日本軍を歓迎したのである。 柴五郎は、北京各国の領事館区の2ヵ月におよぶ篭城中、 攻防戦の指揮官として各国から信用を得て、 北京陥落後は軍事衛門長官(駐留軍司令官)として治安を担当し、 きびしく取り締まりを行ない、暴行や略奪をはたらいた連合軍兵士は 現行犯で捕らえると、それぞれの軍司令部にどんどんつきだした。 日本軍全体は、もっとも規律が正しいことで評判を得て、 その占領地の北城はすぐに治安を回復し、商店も営業を再開したという。 参謀本部編の『明治33年清国事変史』にも、 「他国の軍の占領区域は荒涼、寂莫たるに関わらず、 ひとり我が占領区域内は人心安堵し、ところどころに市場開設し、 売買日に盛んに至れり」と記録している。 それに引き替え、ロシア軍に占領された区域は悲劇であった。 その他の住民たちは続々と日本占領区に逃げ込み、保護を求めた。 当時の北京市長はたまりかね、マクドナルド英公使に苦情を訴え、 ロシア軍管区を日本軍管区に替えてほしいと嘆願したほどだった。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 『三十年前の朝鮮』 イザベラ・バード著書 工藤重雄訳 1925年刊 彼女がみた清軍 宣戦布告後は状況がますます険悪となり、制海権を日本が掌握した結果、 朝鮮へ出征する清軍はみな、満州を通過せざるをえなくなり、 吉林をはじめとする北部諸都市から募集された。 規律を欠いた軍隊が、日に千人の割合をもって奉天に流れ込んだ。 その軍隊たるや左右民家の品物を手当たり次第に略奪し、 宿屋の亭主をブッ叩いたうえに無銭宿泊の乱暴、 キリスト教礼拝堂を無暗に打ち壊すなど狼藉を働いた。 彼女がみた日本軍 軍に規律があり、仕事に秩序があり、各人各々その目的を了解し、 粛然として義務に服し、厳乎として警戒に任じ、 いささかも倨傲不遜の振る舞いがなく、まことに見上げた日本軍であった。 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