正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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日露戦争の戦費調達

Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89#.E6.88.A6.E8.B2.BB.E8.AA.BF.E9.81.94

戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠であり、
日本銀行副総裁 高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で
戦費調達に非常に苦心した。

開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、
初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が
現れない状況であった。
これは、当時の世界中の投資家が、
日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。

是清はまず渡米するもアメリカの銀行家からはまったく相手にされず、
次いで渡英して、額面100ポンドに対して発行価格を93ポンドまで値下げし、
日本の関税収入を抵当とする好条件で、
イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、
ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行に成功した。

直後、再度渡米して、
帝政ロシアを敵視するアメリカのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフと接触し、
残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した。
一転、1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると、
国際市場で日本外債は急騰し、第2次から第4次の外債発行により、
合計で10億円超の資金を調達した(当時の国家予算は約7億円)。

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高橋是清 ~ 日露戦争を支えた外債募集

国際派日本人養成講座 Japan On the Globe(291) H15.05.04
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog291.html

■1.金がなければ戦もできない■

明治37(1904)年2月24日、
日銀副総裁・高橋是清は横浜出帆の汽船でアメリカに向かった。
すでに同月8日には連合艦隊主力は旅順港外でロシア艦隊を攻撃し、
陸軍の先遣部隊も仁川に上陸を開始して、日露戦争が勃発していた。

是清の役割は欧米で外債を募集し、戦費を調達することであった。
政府はとりあえず1年分の戦費を4億5千万円と見積もり、
そのうち1億5千万円が海外に流出するとの予想を立てた。

しかし日銀所有の正貨(金と交換しうる貨幣)余力は
約5千万円程度しかなく、
不足分の1億円を何としても外債で調達しなければならなかった。
当時の国家予算・約6億8千万円と比較してみれば、
その規模が想像できよう。

是清はアメリカに着くとニューヨークに直行して、
数人の銀行家に外債募集の可能性を諮ったが、
「豪胆な子供が力の強い巨人にとびかかった」
と日本国民の勇気を嘆賞しつつも、
米国自体が産業発展のために外国資本を誘致しなければならない状態で、
とうてい起債は無理だとの事であった。

アメリカがだめならロンドンで起債を考えなければならない。
おりしも外国為替を担当する横浜正金銀行の
ロンドン支店長・山川勇木からは「ロンドンでは外債募集の見込みはない。
今日正金銀行のごときはびた一文の信用もない」との電報を送ってきていた。
それには構わず、是清はすぐに英国に向かった。

天は自ら扶(たす)くる者を扶くというではないか。
国家の危急にのぞみ、全力を尽くすばかりだ。

■2.浮きつ沈みつ■

是清は安政元(1854)年、江戸で幕府絵師の家に生まれ、
すぐに江戸詰めの仙台藩足軽・高橋是唯の養子に出された。
12歳にして横浜の英人宅のボーイを務めながら英語を習った。
14歳で仙台藩の留学生として渡米したが、
米人に騙されて奴隷として売られ、
カリフォルニア州オークランドで家事奉公をする。

仙台藩からの別の留学生に救われて、
ようやく帰国した後は大学南校(後の東京大学)の
英語教官手伝いを命ぜられたが、
今度は悪友に騙されて250両の借金を押しつけられ、
日本橋の売れっ子芸者の家に居候して、三味線持ちの手伝いをしていた。

見かねた友人の紹介で唐津の英語校で教え始めると、
教育や学校経営でたちまち成果をあげた。

その後、農商務省に引き抜かれて
特許や商標制度の確立という業績を残したが、
ペルーの銀山経営というペテン話に引っかかり、
関係者の救済のために全財産を投じて無一文に戻った。
その後、是清の力量を見込んだ日銀総裁・川田小一郎に拾われ、
一介の事務主任から始めて、持ち前のやる気と能力でたちまち抜擢されて、
ついには45歳にして副総裁となった。

■3.「困った境遇」■

是清は後年、この浮き沈みの激しい前半生をこう振り返っている。

私も今日までには、
ずいぶんひどく困った境遇に陥ったことも一度や二度ならずあるのだが、
しかも、食うに困るから助けてくださいと、
人に頼みにいったことは一度もない。

いかなる場合でも、何か食うだけの仕事はかならず授かるものである。
その授かった仕事が何であろうと、
常にそれに満足して一生懸命にやるなら、衣食は足りるのだ。

ロンドンでの外債募集に向かうというのも「困った境遇」だったが、
それ以上に大国ロシアとの戦いを始めた日本帝国全体が
「ひどく困った境遇」にあった。
しかし是清も日本も「助けてください」と外国に頼みはしなかった。
欧米の資本家に対し、わが国に金を貸せば得をする、
と説得にかかったのである。

■4.ロンドンの銀行家たちの躊躇■

ロンドン市場では日本公債に対する人気は非常に悪かった。
4パーセントの利付きポンド建て公債の価格は80ポンドだったのが、
戦争が始まるやたちまち60ポンドまで値下がりしてしまい、
所有者に大損害を与えていた。
一方、ロシア政府の方は同盟国フランスの銀行家の後援を受けて、
その公債の価格はむしろ上昇気味だった。

この状態で新たに日本公債を発行しても、
応募者が集まらず失敗に終わる可能性が高い。
それは日本帝国が欧米金融市場からも
見放された事を全世界に知らしめてしまう。
そうなれば日本軍の軍費はたちまち底をつき、
敗戦は火を見るよりも明らかになる。

是清は毎日のように英国の銀行家と話をしているうちに、
彼らが日本公債引受けに躊躇している理由が分かってきた。
一つには兵力からしても日本に勝ち目はないと見ていることだった。
日本が敗戦したら、その公債は紙くずになってしまう恐れがある。
そこで是清はまず日本にも勝ち目がある事を理解させようとした。

すなわちこのたびの戦争は、日本としては国家生存のため、
自衛上已むを得ずして起ったのであって、日本国民は二千五百年来、
上に戴き来った万世一系の皇室を中心とし、老若男女結束して一団となり、
最後の一人まで戦わざれば已まぬ覚悟である、というような説明をすると、
日本の事情に疎い銀行家たちは非常な興味をもって聞き入った。

もう一つの躊躇の理由は、英国は日本の同盟国ではあるが
建前としては局外中立の立場にあり、
公債引受けによって軍費を提供する事は中立違反となるのではないか、
という点だった。
これについては是清はアメリカの南北戦争中に中立国が公債を
引き受けた事例などを引き、法律家や歴史学者の意見も確かめて
問題ないことを明らかにした。

■5.日本政府は元金利払い共に一厘たりとも怠ったことはない■

是清の説得が徐々に浸透して、1ヶ月もすると銀行家たちが相談の上、
公債引受けの条件をまとめてきた。
ポンド建て、利子年6分、期限5カ年、発行限度3百万ポンド、
額面100ポンドで発行価額92ポンド、日本の関税収入を抵当とする、
というものであった。

関税を抵当とする以上、
支那の税関に英国人管理人をおいているように日本にも派遣すべし、
という意見が強かったが、是清は頑として聞かなかった。

一体、貴君らが日本と支那とを同一に見ることが間違っている。
日本政府は従来外債に対して元金利払い共に一厘たりとも怠ったことはない。
ただに外債のみならず、内国債でも未だかつて元利払いを怠ったことはない。
それを支那と同一視されては甚だ迷惑である。

是清がこう強く言い張ったので、
銀行家たちもとうとう管理人派遣をあきらめた。
また是清は他の条件についても、
発行金額を日本政府の希望1千万ポンドの半額5百万ポンドに、
期限5ヶ年を7ヶ年に、発行価額92ポンドを93ポンドに、
と主張して譲らず、これらを英国銀行家たちに呑ませることに成功した。

■6.天佑■

ようやく銀行家たちとの話はまとまったが、まだ必要額1億円の半分である。
そこに幸運が訪れた。
是清と日本で知り合っていたイギリス人の友人が、
銀行家たちとの話がまとまった事を喜んで晩餐会に招待してくれた。
そこに居合わせたのが、
ニューヨークのクーンロエプ商会代表者シフであった。

是清の隣に座ったシフはしきりに日本の経済や生産状況、
開戦後の人心動向などについて聞いてくる。是清は一つ一つ丁寧に答えた。

翌日、シフが人を介して、
残りの5百万ポンドを自分が引き受けて米国で発行したいと
言ってきたのには、是清も驚いた。
シフもクーンロエプ商会も昨晩初めて耳にしたばかりである。
英国の銀行家たちがまとまってようやく引き受けられるほどの金額を、
一人で処理できるのだろうか。

調べてみると、シフは世界的な大富豪である事が分かった。
またロンドンの銀行家たちも、シフの申し出を非常に喜んだ。
英国とロシアの王室は親戚同士であり、また同じ白人国家である。
一人英国のみ日本に肩入れするのは心苦しいという
後ろめたさがあったのだが、米国も加わったということでそれが一掃された。

シフとの相談は人を介してトントン拍子に進み、
米英で同時に合計1千万ポンドの発行ができることとなった。
是清は、これこそ天佑だと大いに喜んだ。

シフは契約がまとまった段階でアメリカに帰ることになり、
もう一度是清に会いたいと言ってきた。
しかし是清は「シフにはひたすら感謝し、敬意を表しているが、
私は一国を代表してきている。
私に会いたければ、シフの方から訪ねてくればよい」と答えた。
公債引受けは援助ではなく、
あくまで対等のビジネスだという筋を通したのであろう。

シフは気を悪くすることもなく、
是清が泊まっている三流商人宿を訪ねてきた。
その後、是清が返礼にシフを訪ねると、
こちらは各国の王侯クラスが泊まるロンドンでも第一流のホテルであった。
シフは相変わらず誠意あふれる態度で接してくれたが、
是清はさすがに「宿替えをせねば、体面にかかわるなあ」ともらした。

■7.シフの志■

5月11日から、米英両国で公債の募集を開始した。
おりしも5月1日には日本軍が朝鮮と満洲の境をなす鴨緑江の渡河作戦で
ロシア軍を圧倒し、大勝を博したとのニュースが流れたため、
日本公債の人気は急上昇した。

是清が発行銀行の様子を見に行くと、申込人の列が3百メートルも続き、
発行当日の午後3時には締め切ったほどだった。
5千万円の募集に対し応募高は、ニューヨークでは2億5千万円、
ロンドンでは実に15億円に達した。

それまで「正価の流出が予想よりはるかに早いので一日も早く
募債を成功させよ」と日銀総裁から繰り返し窮状を訴えられていたのが、
日本公債の人気ぶりが世界に伝わると、正価の流出はピタリと止まった。

その後、是清はシフとの交際を深めていく過程で、
彼がなぜ積極的に日本公債を引受けたのかが明らかになった。
かねてからロシアではユダヤ人が虐待されており、
海外のユダヤ人はロシア政府を援助することによって、
同胞の待遇を改善しようとしていたが、
ロシア政府は金を借りるときだけ都合の良い事を言って、
一向に約束を守らない。

シフは米国のユダヤ人の会長であり、ロシア政府に対して憤慨していた。
そのロシアに戦いを挑んだ日本の兵は
訓練が行き届いて強いということを知り、
これを財政的に助けて、よしんば日本が勝利を得なくとも、
ロシアの政変にでもつながれば、ユダヤ同胞はその虐政から救われるだろう、
と考えたのであった。

■8.償金の有無は主要の問題ではない■

その後、是清は英国銀行団やシフの協力を得て、
第2次・2億円、第3次・3億円、第4次・3億円と
矢継ぎ早に公債募集を成功させていった。

是清が戦況と市況を睨みつつ、的確に募債条件を設定し、
新聞を通じて投資家たちにきちんと説明を行い、
さらにドイツやフランス市場にも募集を拡げていった成果であった。
ニューヨークでは、巨額の起債にも関わらず金融市場を
乱さないよう深甚の注意を払ってくれたと、
投資家たちから賛辞を寄せられた。

日露57万の兵力が激突した奉天会戦、
バルチック艦隊を撃滅した日本海海戦を経て、
明治38(1905)年9月5日、講和条約が調印された。
償金は要求せず、南樺太のみ割譲という
日本側が大幅に譲歩した条件であった。

ロシアから莫大な償金をとれなかった日本政府は資金に窮して、
再度公債募集を図るのでは、という観測が欧米市場に流れ、
日本公債の人気がにわかに消沈した。
是清はインタビューを求めてきたロイター通信などの記者にこう語った。

軍隊の引き揚げ等、戦争の後始末に要する費用は
現在の資金にて十分であり、もし今後、外債を起こすことがあれば、
従来の高利公債を整理するためにほかならない。
この際、平和の成立は満足すべきことであって
償金の有無は主要の問題ではない。

この発言が各新聞に掲載されると、投資家たちは好感して、
日本国債の人気は再び盛り上がった。

■9.金銭と独立心■

是清は60歳まで日銀総裁を務めたが、その後、7度も大蔵大臣に任ぜられ、
さらに総理大臣、農商務大臣、商工大臣、農林大臣を歴任した。

昭和9(1934)年には81歳にして7度目の蔵相就任。
満洲事変以来、軍事予算は膨張を続け、昭和10年度予算では
歳出総額の45%にも達していた。

是清は軍事予算の抑制につとめ、
そのために歯に衣着せぬ軍部批判を議会や閣議で行った。
政治家が次々とテロの標的となる時代だったが、
是清はもはや身の危険を顧みなかった。
それがたたってついに昭和11(1936)年2月26日、
二二六事件の凶弾に倒れた。

日銀、大蔵省と長らく金融・財政畑を歩んだ是清だったが、
金のみがすべてであるという世相を批判して、こう述べている。

元来、米国人が金銭を尊ぶのは、私の見るところによれば、
金銭それ自体を尊ぶというのではなく、かの民族特有の、
きわめて強い個人的独立心からきているもののように思われる。
この点に十分注意してもらいたい。・・・

友人や知己をたずねて、困るから何とかしれくれないか、
とすがりつくが如きが、人間一生の大恥辱となっているから、
決してそんなことはしない。
どうしても、自分の始末は、自分一個の腕でやっていかねばならぬ。

蓄財の目的は、金を貯める事自体ではなく、独立心を磨き、
一身、ひいては、国民全体の品性を高めるにある、と是清は説いた。
そのような品性と独立心とを、日露戦争を戦った頃の日本と、
その資金調達を支えた是清は豊かに持っていた。

(文責:伊勢雅臣)
2010/01/20 06:00|年表リンク用資料
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